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Channel: ジミー矢島の日記 | 高円寺ライブハウス ペンギンハウス
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僕のブルースマン列伝 10

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さて、今日のブルースマンは知ってる人いるのかなあ

ロバート・ピート・ウィリアムズ(Robert Pete Williams)
シンガー/ギタリスト。戦後カントリー・ブルース。1914年ルイジアナ州ザチャリー生まれで、80年同州ローズデイルで死去。50年代中頃に酒場でのケンカに巻き込まれて、襲いかかってきた男を殺し、終身刑を受けてルイジアナ州のアンゴラ刑務所に入獄。ルイジアナ大学の民族学者ハリー・オスカーに発見されて、オスカーの嘆願により減刑されて仮出獄。59年から61年録音の<Free Again>で、芯のある力強い歌を聞ける。60年代は各地のフェスティヴァルに参加

ロバートピートウィリアムス (3 月14 日 1914 年 – 12 月31 日 1980 年) あった アメリカ 青 音楽家、 Lousiana で基づかせている。 彼の音楽は特質上独創的な青のtunings および構造を用いる、 そして彼の歌は彼が刑務所で役立った時間について頻繁にある。 彼の歌”私が育てた従って” 醜い覆われた Beefheart 大尉、 彼のアルバム ミルクとして金庫 (1967 年) 、 そして 黒のキー、 ゴム製工場 (2004 年) 。

ウィリアムスは生まれた Zachary、 ルイジアナ に sharecropping 親、 そしてのまわりに住まれていて バトン・ルージュ 彼の生命中の区域。 彼は発見された アンゴラ 刑務所、 ethnomusicologists Dr ハリーOster 及びリチャードアレンによって、 彼が1956 年にローカルクラブの撃つ人の死者のための終身刑に役立っていたところ、 彼が要求した行為は自衛にあった。 Oster 及びアレンは刑務所で生命についての彼の歌の複数を行っているウィリアムスを記録し、彼のためにあるためにpardonned 弁護した。 許しは1959 年に部分的に許可された、 ウィリアムスが解放された時、 彼が完全な許し1964 年を受け取ったまで彼がLousiana を残すことができなかったが。 この時間までに、 ウィリアムスの音楽はある好ましい口伝えの検討を達成した、 そして彼はその年にルイジアナ国外の彼の最初コンサートをした ニューポートの人々の祝祭。 ウィリアムスは米国を旅行することを継続した そしていくつかのショーとの遊ばれる ミシシッピーフレッドMcDowell。 彼は彼の健康が低下し始めた70年代後期にコンサート及び祝祭をし続けた。 ウィリアムスは死んだ Rosedale、 12 月31 日にルイジアナ、 1980 年、 66 歳で。

 

下段の解説はどうも「自動翻訳」のものらしく何言ってんのかさっぱりわからない所も多々あるが・・・「青 音楽家」というのは「Blues Musician」のことだろうね(笑)

まあ、それだけ無名に近かったブルースマンということなんだろう

僕が彼の演奏を初めて聴いたのは実に僕にとって「生まれて初めて聴いた」レコード「ブルース・アト・ニューポート1964」というオムニバス盤に「ミシシッピ・ジョン・ハート」「スキップ・ジェイムス」「スリーピー・ジョン・エスティス」などに混ざって彼の演奏が入っていたのだ

 

とにかくその時まだブルースというものがよくわからなかった僕だったのだが「これは只者じゃない!」と鋭く感じたわけで  おまけにその解説に「彼は殺人罪で刑務所に入っていたところを発見された」というプロフィールにも刺激を受け、さっそくその刑務所時代の録音が入っている「アンゴラ・プリゾナース・ブルース」を手に入れて聴いたのだ

 

そのインパクトも凄かったが、とにかく彼のスタイルには「ブルース以前」を思わせるような強烈な原始的なパワーと泥臭さがあってしばらく僕はこの人のスタイルにハマってしまったのだ これだけ泥臭いまんまの人がよく「戦後」まで居たものだ 南部恐るべし!

 

とても雰囲気が出ているドキュメントっぽいこの動画をごらん下さい


 


僕のブルースマン列伝 11

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今日紹介するブルースマンは ロゼッタ・サープ Sister Rosetta Tharpe

いや、正確にはブルースマンじゃない ゴスペルシンガー それに名前で判るとおり女性だ

1921年3月20日にアーカンソー州コットンプラントで生まれ、1973年10月9日にペンシルヴェイニア州フィラデルフィアで死去しました。6歳の頃から、ホーリーネス教会の巡回説教師だった母に連れられて集会所を廻り、ゴスペル歌っていました。1938年にはキャブ・キャロウェイとコットン・クラブで共演しました。同年にデッカと契約し、メジャー・レーベルと契約した最初のゴスペル歌手となり、「Rock Me」でゴスペルでは最初のミリオン・セラーを記録しました。1940年代はラッキー・ミリンダー楽団を帯同しゴスペルとジャズを歌います。1947年には自作したブルース形式を持ったゴスペル曲「This Train」や、ゴスペル歌手でありピアノ奏者のメアリー・ナイトと組んで歌った「Up Above My Head」で絶大な人気を博しました。ビック・ビル・ブルーンジー風の緩急自在のギターと、表情豊かで力強い歌には、思わず引き込まれます。その後、アメリカに留まらずヨーロッパにも巡業しています。
マヘリア・ジャクソンは『ブルーズは絶望の歌、ゴスペルは希望の歌』としてゴスペルだけを歌うようになりましたが、ロゼッタ・サープはクララ・ロードに先駆けてコスペルをナイト・クラブに持ち込み垣根を越えて活動したのです。

 

なぜゴスペルシンガーであった彼女を僕が「ブルースマン列伝」に紹介するか・・・

その理由はこれを見てもらえば・・・わかるかな

とにかく初めて彼女の演奏をレコードで聴いたときはぶったまげた

なにしろ初期のころはナショナルのレゾネーターギターをガンガンかき鳴らし(それもむちゃくちゃブルージーなんだ) もう迫力満点な歌い方!

一発でコロリとやられたねえ(笑) ゴスペル恐るべしだ

彼女の演奏はけっこう映像が残っていてヨーロッパツアーのときのライブ映像なんか本当にカッコいい 仁王立ちして顔をぐわっと客席に向けて・・・そして曲はブルースの名曲「TROUBLE IN MIND」だ

もう少し長生きしてくれてれば生で観られたかも・・・そう思うと残念だねえ

 

 

僕のブルースマン列伝12

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さて、今日紹介するのはカントリーブルース そしてミシシッピスタイルを本当に長年に渡って広めてきたこの人 ビッグ・ジョー・ウィリアムス BIG JOE WILLIAMS

彼についての紹介文t02200158_0400028711976493842
1903年10月16日にミシシッピー州クロフォード生まれました。本名はジョー・リー・ウィリアムズです。生涯を放浪のブルースマンとして、自作した奇 怪な9弦ギターを片手に旅を続け、マンドリンのように響くギターと強く逞しい歌声を聞かせました。1935年、シカゴのブルーバードに初録音をしました。 同年にシカゴでのウォッシュボード・ブルース・シンガーズでも吹き込んでいます。1941年にサニー・ボーイⅠをバックに配してブルーバードに 「Highway 49」という傑作を吹き込みました。スライド・ギターでの演奏も素晴らしく、1951年にトランペットに吹き込んでいます。1950年代までは黒人向け レーベルに、1950年代末からは白人向けレーベルに吹き込みしています。他のブルースマン達にも数多く取り上げられている「Baby Please Don’t Go」は彼の作品です。1982年にミシシッピー州のメイシオで死去しました。
1975年に一度来日しています。

 

そう、1975年に彼は日本に来た そのときすでに72歳だったわけだが日比谷の野音の広い会場に響き渡る彼の声とギターはまだまだ勢いとパワーがあった

 

そうそう、ビッグジョーといえばトレードマ-クの「9弦ギター」 それは不思議な弦の張り方をしてあって、元々普通の6弦ギターに弦を足していったもののようだ それで何で彼がそんなギターを弾いてるのかについて以前インタビューに応えていた

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「俺があちこちで演奏してたら俺のギタースタイルを真似するやつらが現れた それで弦を1本多くした それもまた真似られた そこでもう1本足してみた それでも真似された 最後にもう1本足して9弦にしたら真似するやつは居なくなった それ以来このギターを弾き続けてるのさ」

戦前から活躍していた彼は戦後さまざまなところで演奏やレコーディングを行っていた その中で91Vx8yw7UwL._SX355_ひとつ面白いアルバムを残している

そのタイトルは「THREE KINGS AND THE QUEEN」 これは「Spivey Records」というところから出版されていてそこのオーナーでブルースシンガーの「ビクトリア・スピビー」のほかに「ルーズベルト・サイクス」「ロニー・ジョンソン」そして「ビッグ・ジョー・ウィリアムス」が参加して作られたものでアルバムジャケットにはその4人の仲間の名前が大きく、そしてその片隅に「ボブ・ディラン」の名前がある

 

実はこのアルバム制作のときに当時まだデビュー前だったディランを「若くていいブルースハープA-very-young-Bob-Dylan-with-Big-Joe-Williams-seated-1962を吹く白人のミュージシャンが居るから」というオファーを受けて採用しビッグジョーのバックで2曲ディランがハープを吹き「SITTING ON THE TOP OF THE WORLD」ではディランはコーラスまで入れている これがディランにとっては初レコーディングだったらしい

 

 

このときビクトリアは若いディランのことをたいそう気に入って一緒に撮った写真を後にディランは自身のアルバム「NEW MORNING」のジャケットに掲載している

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さて、ビッグジョーには多くの名曲、名演奏があるがやはり彼といえばこの曲「BABY PLEASE DON’T GO」だろう これは戦後の演奏だがこの独特の突っかかるような歌い方は昔と少しも変わらない

そして僕ら「仲田修子バンド」もこの曲をカバーしている それでは最後に2016年版「BABY PLEASE DON’T GO」 をごらん下さい 動画の冒頭で少し流れてるのがビッグジョーが1930年代に吹き込んだオリジナルバージョンです

僕のブルースマン列伝13

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僕のこのコーナーももう13回目 一応「戦前」と「戦後」というか「カントリーブルース」と「モダンブルース」と区切って今日が戦前の最終回 ということで今日のブルースマンは

ブラック・エイス BLACK ACE

 

30 年代から40年代にかけ地元テキサスで人気を博したブルースマン、ブラック・エイス。60 年にクリス・ストラックウィッツが再発見し制作した唯一の単独アルバムがこれだ。膝に乗せたナショナル製スティール・ギターを必殺の薬瓶スライドで鳴り響かせ、朗々とブルースを唸る

本名はベイブ・カルロ・レモン・ターナーです。1905年、テキサス州ヒューズ・スプリングスで生まれました。大恐慌時代に移ったシュリヴポートでオスカー・ローン・ウルフ・ウッズと知り合い、膝の上にギターを乗せてポケット・ナイフで弾くスライド奏法を習得します。後にターナーはナショナル社のスチール製ドブロ・ギターを手に入れると、ナイフを小さなボトル状の錠剤壜に持ち替えています。1930年代は一緒に活動したり、フォートワースのラジオ局に出演したりして、1937年になるとデッカに6曲を録音しています。戦後は綿摘みや守衛の仕事をして暮らしていましたが、1960年代にはアーフリーにLPを吹き込んでいます。1972年11月7日にテキサス州フォートワースで亡くなりました。

 

さて、「戦前派」最後に紹介したいブルースマンブラック・エイス

まずこの演奏を聴いていただこう

・・・ね、いいでしょ! 彼の演奏を始めて聴いたのは70年代に国内盤で発売された「スラドイド・ギター・ブルース」というオムニバスアルバムでだった

そこには彼以外に「ココモ・アーノルド」と「オスカー・ウッズ」という2人のブルースマンが入っていた ココモ・アーノルドがこの中では一番有名だった人でロバート・ジョンソンからエルビス・プレスリーまでカバーしている「Milk Cow Blues」の作者だ

もう一人オスカー・ウッズもブラックエイスの師匠みたいな人でこの人のプレイもまた素晴らしい!

この3人に共通しているのはギターを抱えずに膝の上において弾くいわゆる「ラップスタイル」あるいは「ハワイアンスタイル」という弾き方だ これだとコードなんかは押さえられないのだがエイスはそれをじつに上手くクリアーしている

僕も元々このラップスタイルが大好きなので(ちなみに僕のドブロギターは普通に抱えて弾くラウンドネックだがナットを高くして完全にラップスタイルにしているそしてお気に入りのスライドバーは七味のビンそれも「やげん掘」に限る)彼のこのプレイは本当に心がうずいてしまうのだよ

 

戦後も「再発見」されてありがたいことに幸い動画も残っている

カントリーブルースの世界は本当に基盤がむちゃくちゃ広くて深い・・・

まだまだ紹介したい人はいるのだが「戦線編」はとりあえずここまで

次回からは「戦後」のブルースマンの話に移っていくことにしましょう

 

 

僕のブルースマン列伝 14

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さて、後半というかここからは”戦後”に活躍したブルースマンの話をしていこうと思う

それでその最初は誰にしようか・・・と、迷っていたのだが昨日寝る前に久しぶりに観た「BLUES BROTHERS」でこの人にすることにした

マット・ギター・マーフィー Matt Murphy

 

1929年ミシシッピー州サンフラワーで生まれました。
職人的な腕を誇るギターの名手です。1940年代にメンフィスに移住してギターにのめり込んで行きます。ハウリン・ウルフのバンドに加入したり、ボビー・ブランド、ジュニアー・パーカーなどのレコーディングにも参加しています。テーボーン・ウォーカーに強く影響されて、ジャズに興味を持ち、アルト・サックスのチャーリー・パーカーのフレージングも研究しています。また、ロバート・ジュニア・ロックウッドとも親交があり色々と教わりました。
1950年代にはシカゴに渡り、メンフィス・スリムのギタリストとして活躍します。1963年にスリムがフランスに移住すると、チェス・レーベルを中心としたセッション・ミュージシャンとして活動します。
1974年にはシカゴのハープ奏者ジェームズ・コットンのバンド・リーダーとして、名盤「100%コットン」を初め三枚の作品を残します。
1978年にはブルース・ブラザーズ・バンドに参加して、映画でもアレサ・フランクリンの夫役で出演しています。1990年には60歳にして初のソロ・アルバム「ウェイ・ダウン・サウス」を発表しています。
1989年、1991年にブルース・ブラザーズ・バンドの一員として、1992年に単独で来日しています。

・・・というような人なんだが、皆さんはBLUES BROTHERS の映画はご覧になったかな

この映画は1980年に公開されてそれと同時に彼ら「Blues Brothers Band」のアルバムも出て当時はかなりの評判を呼んだものだ

 

その映画の中でバンドのギタリストとして登場し、役柄はアレサ・フランクリンが扮する女房の尻に敷かれながらシカゴの「マックスウェル・ストリート」で「ソウルフード」の店を経営している男という設定だった この時のシーンで導入部でストリートで歌ってるシンガーがかのジョン・リー・フッカーだったのも印象的だが

劇中で「俺、バンドに参加する」と言うマットにアレサがThinkという歌で彼を諌める・・・というより脅すのを振り切って出てゆくというシーン

この場面はこの続編として公開された「BLUES BROTHERS 2000」でもまったく同じような設定で出てくるのだが、なんとその時の彼らは「高級外車販売店のオーナー」ということになっていた

さて、僕がこの映画を見ていてどうしても気に入らなかったことがこの「マット」の扱いだ

演奏を聴いてもらえばわかると思うけど本当に素晴らしいギタリストなんだ

それが映画の中ではほんのちょろっと・・・それもなんだか存在感の薄いギターソロを弾いてただけで、彼のことを知らない人たちはきっと「なんだか情けない恐妻家の男」ぐらいのイメージしか与えてないんじゃないかと・・・

彼には名演奏も数多いんだけど僕は特に昔ジュニア・パーカーのバックで弾いたマットのギターソロで鳥肌が立った経験がある それがこのプレイだ

ずうっとサポートギタリストとしての仕事が多かった・・・それは彼の師匠である「あの人」とちょっと似てるのかも・・・次回は「その人」の話をね

 

 

僕のブルースマン列伝 15

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さて、今日は戦後のブルースマンの中で僕が一番好きな・・・というより”リスペクト”している人を紹介しよう それは

ロバート・ロックウッド・ジュニア Robert Lockwood Jr

 

ロバート・ロックウッド・ジュニア(Robert Lockwood Jr.または Robert Jr. Lockwood1915年3月27日2006年11月21日)は、アメリカ合衆国出身のブルースギタリスト歌手1950年代から1960年代にかけてチェス・レコードをはじめとするシカゴのレベールと契約し、作品を残した。また、長きに渡ってサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの共演者であったことでも知られている

ヘレナの西に位置する村、ターキー・スクラッチ生まれた。8歳の頃から彼の父親の教会でオルガンを習い始めた。両親は離婚し母親に引き取られたが、彼女が再婚した相手が後に広く知られることになるブルース・ミュージシャン、ロバート・ジョンソンだった。ロックウッドは未だ10歳頃、彼からギターを教わり出した。ジョンソンの教え方は手本を1度切りしか見せてはくれない厳しいものだったが、一度基礎を理解したロックウッドはそれを砂漠が水を浸み込ませるように吸収していった。ロックウッドはさらに、ジョンソンから演奏のタイミングやステージでの立ち振る舞いなど、プロのミュージシャンとしての数々を教わった 15歳の頃にはヘレナ地区のパーティーなどでプロとしての演奏をこなしていたロックウッドは、ジョンソンやサニー・ボーイ、ジョニー・シャインズらともしばしば共演していた。1930年代、彼はジューク・ジョイント(ブルースを聞かせるくだけた盛り場)やフィッシュ・フライ(ジューク・ジョイントなどで料理「フィッシュ・フライ」を主餐に行われた週末のパーティー)、時にはストリートミュージシャンとしてミシシッピ川のデルタ地帯一帯で演奏活動を行った。1938年から1939年にかけて、サニー・ボーイとクラークスデイルで共演。また1938年前後には、メンフィスで、ハウリン・ウルフを始めとするブルース・ミュージシャンと共演している。1939年から1940年にかけては活動域を拡げ、ミズーリ州セントルイスイリノイ州シカゴ、ヘレナの3か所を行き来して活動した[1]。またこの頃、メンフィスでB.B.キングとステージを共にしたことがあり、ロックウッドは彼に音楽上の影響を及ぼしたとも言われている。またサニー・ボーイとともにヘレナ地区にあるKFFAラジオの現在も続くブルース専門の長寿番組『キング・ビスケット・タイム』の司会進行を務め始め、番組中でバンド『キング・ビスケット・エンターテナーズ』を結成、生演奏を披露した。このペアはラジオ出演以外にもヘレナ地区を中心に公演も行った。一方でロックウッド自身の活動も1940年代後半まではアーカンソー州を拠点としていた。しかし1950年にはシカゴに移り住みサニー・ボーイのチェス・レコードから発売された2枚目のアルバムにウィリー・ディクソンオーティス・スパンらとともに加わった。その他にも、リトル・ウォルターサニーランド・スリムエディー・ボイドマディ・ウォーターズらとの共演も果たした。

1961年にはオハイオ州クリーブランドに移住。 1960年代半ばに一度引退。しかし1972年にカムバックした。1980年代初頭からはジョニー・シャインと活動を共にし、また日本で出演したライブもアルバム化している。1989年にはブルースの殿堂入りを果たした。晩年も活発な音楽活動に取り組みつつも、住居があるクリーブランドでは毎週水曜日の夜8時に都心部のレストラン・バー『Fat Fish Blue』で演奏を聞かせていた。

2006年11月21日、呼吸不全に陥り、入院先のケース大学医療センターで亡くなった。

 

・・・とWikipediaからの紹介をかなり省略してもかなりの長さなのだが、とにかくあのロバート・ジョンソンからの影響から始まった彼のキャリアは亡くなる直前まで続き、老いて衰えるどころか80代を過ぎてさえ自己啓発を怠らず新しいものにも挑戦し続けたという本当に「偉人」と言えるようなブルースマンだった

このロックウッドの初来日を僕はあの「スリーピー・ジョン・エスティス」と同じパックのブルースフェスティバルで観た

その直前に「予習」として当時デルマークレーベルから出たばかりだった彼の初リーダーアルバム「STEADY ROLLIN’ MAN」を入手して聴いた その時の印象は「???」だった

自分のリーダーアルバムでありギタリストとして「偉大な」という形容詞がついていた彼のこのアルバムはあまりにも「地味」で正直「しょぼいなあ・・・」と、当時B・Bキングやバディー・ガイなども聴いていた僕には妙に盛り上がりのない作品に思えたのだ

とにかくどの曲でもほとんどリードを弾かない 弾いてもほんの形ばかりのソロをちょこっと弾くだけ 1曲だけ入っていたギターインストも妙にジャズっぽいカンジで当時の僕にはその良さが理解できなかったのだ

そしていよいよあの「ブルースフェスティバル」の日がやってきた

大歓声の中エスティスらが引っ込みしばらくして幕が上がる ギラッとスポットなどの照明が輝く中ですでにステージでスタンバってたロックウッドとその時のバックの「エイシズ」の演奏が始まった

するとそれはあのアルバムとはえらく違うなんだか妙にきらびやかでガツンガツン来るようなサウンド とにかく音がデカい! その前のエスティスたちのアコースティックサウンドにならされてた耳はこの音にまずびっくり!

そしてその演奏は・・・僕は実はその時は「ぽか~ん」と狐につままれたような状態のままだったのでその時の演奏がどんなものだったのかイマイチ実感できずにライブが終わってしまった

 

ただ、後日発売された彼らの「Live in Japan」を聴くとこれはもう「すごい~!」としか言いようのないロックウッドの魔法のようなギタープレイがはじめて実感できたのだ

特に「Stormy Monday」とか「Going Down Slow」で聴けるロックウッドのギターソロはもう「鬼神」としか言いようのないプレイで僕もなんとかコピーしようと努力したが・・・すぐに挫折した

B・B・キングもマット・マーフィーも日本では吾妻光良も・・・多くのギタリストが彼から影響を受けている この映像は2度目に来日したときの模様で、変わらず達者で華麗なギターは素晴らしい あと僕は彼の決して上手くはないのだが暖か味と味のあるボーカルも好きだ

でも、僕が一番リスペクトするのはバックギタリストとしての彼の卓越したテックニックとセンスだ(サニーボーイ・ウィリアムソンの曲「SMALL VILLAGE」ここでギターを弾いてるのはたしかロクウウッドだと思う 違ったとしても彼の弟子の誰かで完全にロックウッドスタイルだ)何よりそれがすごいと思う ジミー矢島のバッキングギターの師匠は間違いなく彼だ

そして今・・・あの「STEADY ROLLIN’ MAN」を聴くと本当に涙が出そうになる

本当に最高のギタリストが そこにいる

 

 

僕のブルースマン列伝 16

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さて、今日はとっても味のあるギターを弾くブルースマン 決して”一流”ではないんだが実はとても大きな役割を果たした男・・・その名は

ロバート・ナイトホーク Robert Nighthawk

本名をロバート・マッカラム( Robert McCollum )といい、1909年にアーカンソー州ヘレナで生まれました。
戦前はロバート・リー・マッコイ、ランブリング・ボブ、ピーティーズ・ボーイの名でブルーバードやデッカに20数曲程度を吹き込んでいます。1920年代中期にはウィル・シェイドのメンフィス・ジャグ・バンドに加わり活動しました。1931年はジャクスンでジミー・リードと活動し、この頃、ヒューストン・スタックハウスにハープとギターの手ほどきを受け、トミー・ジョンスンらの南部から流れ下るブルース・フィーリングを身に付けています。1950年から1960年代にはシカゴのマクスウェル通りで路上演奏をして過ごしました。1937年にはブルーバードに「タフ・ラック」などを初レコーディングしています。
トミー・ジョンソンに強く影響を受け、それにタンパ・レッドのスライド・ギター奏法を加えた独特のスタイルを持ち、マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムズ、アール・フッカーなどに大きな影響を与えました。彼は1940年代初頭に最初にエレクトリック・ギターを使い始めたひとりだと言われています。しかし、レコーディングは少なく、アリストクラート、ユナイティッド、ステイツ、テスタメントに数曲吹き込んだだけです。
1967年に故郷のアーカンソー州ヘレナで毒殺されています  以上「ラジカル・ビスケット / ポップ&ブルース人名辞典」より転載

この人のことを僕はどうやって知ったのか今ではまったく覚えがない

たしかヨーロッパのマイナーレーベルから出ていたLP盤だったと思うんだがなぜかバックはアコースティックギターという妙な編成の録音だった それはたしかこれだったと思う

 

ところがこの人・・・驚くほどレコーディングのチャンスに恵まれてなくて、日本版で出たCHESSのオムニバスアルバムに入ってる演奏もバックが全然良くなくて彼の味を活かしてない

ギターの演奏ではオープンチューニングを使わずレギュラーチューニングでスライドをする・・・その後のマディーやエルモア・・・それに多くのロックギタリストにも影響を与えた人だと思うんだけど・・・

 

彼が唯一活き活きと活動している様子はなんとドッキュメンタリー映画の中で観られる

 

それは50年代のシカゴの黒人街の中にある「マックスウェル・ストリート」・・・そう、「列伝13」でジョン・リーが歌ってた場所だ・・・そこの様子を写した映画「And This is Free」そこでストリートミュージシャンとして演奏する彼のバンドが映ってる この映画にはほかにも色々なミュージシャンが登場するのだが、なんと当時はまだ学生で全く無名だったはずの「マイク・ブルームフィールド」まで映ってるのだ!

ただ、この映画の製作者はロバートのことを知ってたのかどうかはわからない まるで無名のミュージシャンだと思ってたのかな、映像はこんな感じだ

でも、この映画からは「ブルース」が当時のシカゴの黒人たちにとって「何」だったのかがすごく伝わってくる 彼の演奏を聴きながら楽しそうに踊る聴衆たち・・・これこそがブルースが「何のための音楽だったか」をはっきりと見せてくれる 日本人のブルースファンもほとんどこれを見過ごしているがブルースって「踊るための音楽」なのだよね

ところでこの映像の仲で彼のスライドプレイのときになるとなぜか映像がその指を写さないのはもしかすると彼自身が「俺のプレイを盗まれたくない」と拒否したのかも知れない(実際僕も見て盗みたかった)・・・昔のブルースマンはそういう理由でレコード録音すら拒否した時代があったというから・・・

 

ちなみにマックスウェル・ストリートは地元民の反対を押し切って2000年に廃止されたそうだ

 

最後は「毒殺」されるという人生を歩んだBAD LUCKな彼・・・でも、いかにもブルースマンらしいって言えばらしいんだよねえ

 

 

僕のブルースマン列伝 17

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さて、今日のブルースマンは

RLバーンサイド R.L. Burnside

1926年にミシシッピー州オックスフォードで生まれました。2005年に亡くなっています。本名はルーラル・リロイ・バーンサイド( Rural Leroy Burnside )です。
1967年にアーフリーに初レコーディングをしました。その後、何回かのレコーディングしましたが不発に終わります。しかし、ロバート・パーマーとデイ ヴ・スチュワートが制作した映画「ディープ・ブルース」でのライヴ映像で注目を集めます。1990年代に入りファット・ポッサムから「Bad Luck City」を発表しました。三作目のジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンとの共演盤「A Ass Pocket Full Of Whisky」が話題になりました。1997年、1998年に来日しています 以上「ポップ&ブルース人名辞典」より転載

 

僕がこの人のことを知ったのは彼が初来日する直前ぐらいだった とにかく20世紀も終り近くになってまだ「こんな」モーダルで「プリミティブ」な演奏スタイルを持ったブルースマンがまだ現役で活動していた・・・ということに驚いた→これ

ミシシッピーという場所はやはり「Deep South」なんだなあ・・・と改めて思い知らされた

僕が前に見たドキュメンタリー番組・・・確か忌野清志郎がナレーションをやっていた・・・に彼が出てきてムチャクチャ南部なまりで「俺のギターは危険だぜ!」と言ってニタっと笑うシーンが印象に残ってる

とにかくこの人の演奏を聴くといまだに南部の奥には残ってるプリミティブなブラックネスを感じるよねえ・・・まあバーンサイドも死んじゃったんで,こういう貴重なブルースマンもどんどん居なくなるんだろうけどなあ

 

今日のおまけ 仲田修子バンドの「EVARYDAY I HAVE THE BLUES」です

 

 


僕のブルースマン列伝 18

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今日ご紹介するブルースマンはなんと左手の指が6本あったという

ハウンド・ドッグ・テイラー  Hound Dog Taylor

 

1915年4月12日1975年12月17日) は、アメリカ合衆国ブルースギタリストシンガーエルモア・ジェームス直系の荒削りで豪快なスライド・ギターが特長。ハウンド・ドッグ・テイラー&ザ・ハウスロッカーズを結成して活動し、晩年になってからアリゲーター・レコードからリリースしたアルバムにより注目を集める。ハウスロッカーズはツイン・ギターとドラムスのトリオ形式で、ベーシストがいない変則的な編成。ここから繰り出されるサウンドは、セカンド・ギターのブリュワー・フィリップスがギタリストでありながらベーシスト的なプレイもするユニークなものであった。1915年、ミシシッピ州ナッチェスに生まれる。ギターを弾き始めたのは20歳の頃であった[1]。小作人として農業に従事する傍らミシシッピ州のジュークジョイントでプレイをしていたが、1942年にシカゴに移住する。シカゴではサウスサイド、ウェストサイドを中心にプレイするようになった。フレディ・キングのインスト・ナンバー”Hideaway”は、テイラーがこの頃シカゴのクラブで演奏していたものをキングが聴き、自分のレパートリーに取り入れたと言われている[2]。1960年には零細レーベル、ビー&ベイビーから、1962年にはファーマよりシングルをリリースしシカゴのシーンで人気を博すが、彼の存在が広く知られるには至らなかった[2]。1967年にはチェス・レコード傘下のチェッカーにもレコーディングを行っているが、当時はリリースされなかった[1]。この頃アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルのバンド・メンバーとしてヨーロッパ・ツアーも経験しているがあくまでもサポート役であり、注目を浴びるには至っていない[1]。1970年、ミシガン州のアンアーバー・ブルース・フェスティバルに出演する。翌1971年、テイラーとハウスロッカーズはアリゲーター・レコードからアルバム・デビューを果たした。アリゲーターは、レーベルの創設者のブルース・イグロアがテイラーのレコードをリリースするために立ち上げたレーベルであった。彼はそれまではデルマーク・レコードに勤務していたが、テイラーのレコードをデルマークでリリースすることを進言したものの断られたため、自己のレーベル設立に至った[3]。テイラーは、1973年にはセカンド・アルバムNatural Boogieをリリースし、1975年にはライブ盤Be Ware of the Dog!のリリースを準備していたものの、同年シカゴでガンのため死去。同作は彼の死去後にリリースとなった   以上「Wikipedia」より

 

とにかく僕は彼が大好きだ! その下手っぴーなスライドギターも甲高い声も含めてなんてブルースマンらしい人なんだろうなあ・・・そう思う

デビュー当時はまったく認められなくて、たまたまヨーロッパのブルースパッケージツアーの一員として「ココ・テイラー」や「リトル・ウォルター」などとともに参加しているのだが完全に「幕下」扱い

上の演奏なんか彼がメインでやってる演奏なのになぜかカメラはバックのリトル・ウォルターばっかりを写すとか、ココ・テイラーのバックをやったときなどは周りのバンドマンから「なんてヒドいギタリストだ!」と散々ひんしゅくを買い、映像ではすごく萎縮して演奏している彼が映ってる

 

そして彼がようやく認められるようになったのは「アリゲーターレーベル」からアルバムを出した頃・・・だからブルースの絶頂期というよりはもう「ロック」の時代に入ってからだった

 

 

荒削りで「自由奔放」な彼のスタイルが若者・・・まあ白人だが・・・の心をとらえ、僕の心もがっちり掴まえた 特に僕が大好きなのが彼の死後に発表されたライブアルバム「Bewear the Dog」・・・訳すと「犬に注意」だ

ここには最初から大声で笑う彼のMCから始まるライブの模様が収められてるのだがもう最高にゴキゲンだ そして1曲だけ入ってるもう一人のギタリスト「ブリュワー・フィリップス」・・彼は他の曲では終始ベース的な演奏に徹しているのだが・・・その彼をメインにしたギターインスト・・・もう最高!

スティービー・レイ・ボーンもいいけど、こういうギタリストもお手本にしてほしいねえ

ずっと以前のインタビューに応えて彼はこんなことを言っていた

「俺が死んだらみんな”あいつのギターは下手くそだったけどゴキゲンな音だったなあ”って言うんだろうなあ・・・」

 

テイラーのライブ映像はあのヨーロッパツアーのときの情けない姿を除けばちゃんとしたなものが残ってないのだが、この映像は荒いけどすごく雰囲気のある映像をお楽しみ下さい

僕のブルースマン列伝 19

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さて、今日はブルースの世界での「一発屋」を紹介したい

一発屋・・・この有り難くない称号を差し上げるのはちょっとためらいがあるのだが・・・と言うのもなぜこの人が評判を呼んでそして消えて行ったかが・・・かぎりなくブルースなのだ

その名はカルヴィン・リーヴィー(Calvin Leavy)

 

シンガー/ベーシスト。モダン・サザン・ブルース~サザン・ソウル。アーカンソー州でカルビン活動。1941年アーカンソー州スコット生まれ。ベーシストのホージア・リーヴィは兄。ブルースのスタイルとしてはB.B.キング~フェントン・ロビンスン。南部的な感覚とモダン・ブルースを無理なくブレンド。P-Vine<Cummins Prison Farm>の同名の曲は、68年に発覚した、アーカンソー州カミンズ刑務所での黒人囚殺し、秘密裏に行われた埋葬を告発するもので、南部でヒット。68年にソウルビート、アクアリアン、70年にシルヴァー・フォックスに録音。(CD,BR,Ln)・・・と「ブルース人名事典」には紹介されている

 

僕が彼のことを知ったのは当時発足したばかりの日本のブルースレーベル「P-バイン」からの第一kalvin作が彼のレコードだったからだ

ただしカルビン自身のリーダー曲はA面のみ B面はほかの人や彼のお兄さんの「ホージア・リーヴィー」の曲も入っている

そして、当時これがなぜ話題を呼んだのかというとそれはまさにこのアルバムのタイトルにもなってる「Cummins Prison Farm」という一曲のブルースが当時大問題を引き起こしたのだ とにかく聴いてください

この「カミンズ・プリゾン」という刑務所は実際アーカンソー州にある施設でそこの刑務看守たちがプリゾン黒人の囚人たちを無法に大量殺害し闇に葬っていたという実話をそのまま歌にしたもので、聴くとその演奏も歌詞も歌い方も実にアグレッシブに怒りに満ちている(写真はそことは別の施設)

 

その歌の歌詞の中にこんな一節がある

 

「俺は看守に”ここから出られたらかならず善人になりますから”・・・そう訴えた そうすると彼は俺の目を見ながらこう言った・・・ ”なあ、ここに居るのはみんな善人ばかりなんだよ”」

 

この曲だけでこの南部の無名のローカルブルースマンだった彼は一躍「時の人」になった

・・・でも、それだけだった かなり社会問題まで引き起こしついには当時の刑務所長を「更迭」まで追い込んだこの曲はブルースがもしかするとはじめて「社会」に向けて直接力を行使した極めて珍しい例だったのかもしれない

その後彼はまた元の「ローカルブルースマン」に戻り・・・いや、まだ若かったし「ソウルミュージック」も歌ってた彼はブルースではないジャンルでの活動にシフトしていったのかも・・・そして

 

92年より麻薬に関連した複数の罪で終身刑の判決を受け服役していました。その後、体調の悪化によりアーカンソー州パイングラフの病院に移されていましたが、2010年6月6日に糖尿病の合併症により死去しました。享年70歳でした。減刑により、翌年には出所できる予定でした。{ラジカルビスケット」より抜粋

 

・・・だそうだ 彼にとっての”あの後”のブルースマンとして黒人としての人生はどうだったんだろう

 

 

僕のブルースマン列伝 20

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さて、今日は若くして不運でなくなったブルースマン

マジック・サムMagic Sam だマジック

1937年2月14日1969年12月1日)は米国ブルースギタリストシンガー。本名はサミュエル・ジーン・マゲット。50年代から60年代にかけてシカゴで活躍し、オーティス・ラッシュバディ・ガイらとともにシカゴ・ブルースに新風を吹き込んだ。

1937年2月14日、サムはミシシッピ州中部の街のグレナダの郊外で生まれた。1950年、家族に連れられシカゴへ移住。シル・ジョンソンと出会い、彼からギターを教わる。50年代半ばには、シカゴのブルース・クラブに出演するようになっていた。

1957年、コブラ・レコードへ初のレコーディングを行う。同レーベルには57年、58年とレコーディングを重ね、”All Your Love”を始め、計4枚のシングルをリリースした。1959年にコブラが倒産した後、サムは兵役に着くが脱走してしまい、脱走罪で刑務所に服役している。

1960年、音楽活動を再開したサムは、60年、61年とチーフ・レコードへレコーディングを行い、シングルを4枚リリースした。チーフの作品はコブラの作品と比べてよりR&B色が強くなっている。このあと、暫くレコーディングから遠ざかってしまうが、1966年、デルマークとクラッシュへ相次いでレコーディングを行った。翌1967年には、初のオリジナル・アルバム、West Side Soulをリリースした。同作はシカゴ・ブルースを代表する作品として知られるようになり、彼の知名度も以後うなぎ上りに上がっていった。

1969年、セカンド・アルバムBlack Magicをリリース。同年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のために渡欧。アン・アーバー・ブルース・フェスティバルへの出演も果たすなど活動を加速させているが、絶頂期の最中、この年の12月1日、心臓発作により32歳の若さで急逝した。

生前にリリースしたアルバムは僅か2枚しかないが、没後も未発表曲を収録したアルバムがリリースされ続けている。中でも1981年にリリースされたライブ盤Magic Sam Liveは、スタジオ作では味わうことの出来ない、サムの演奏の勢いを感じさせる内容となっている。63年と64年のシカゴのクラブでの演奏と69年のアン・アーバー・ブルース・フェスティバルを収録したもので、没後のリリースながらサムの代表作として知られている。

2002年には、更にシカゴでの未発表ライブの収録したRockin’ Wild in Chicagoがリリースされた。

 

亡くなった年齢が32歳・・・本当にこれから脂が乗ってきてますます旨くなる矢先の急死だったサム

噂ではマネージメントをやっていた連中が彼に過酷なスケジュールを強いたから・・・とも言われているが、そうだとしたら本当に残念な話だと思う

 

 

今・・・せめてあと20年でも長く生きてたら今の黒人ブルースの世界をかなり変革させていたじゃないか・・・そう思えるくらいの勢いと瑞々しさが溢れている

彼の残した音源は少ないし映像となるとこれくらいしか見当たらないのだ

この映像はあるブルースDVDの「ボーナストラック」として入っていたもので、当日彼は出演者にブッキングされてたのかも不明だ・・・と言うのも使ってるギターはアール・フッカーのもので、この日多分レギュラーで出演していたフッカーの⇒バンドとギターを借りて飛び入りみたいに演奏したんじゃないかな・・・

だとするとこの映像が残っていたのは本当に奇跡的なことだと思う

そしてこの「本編」よりはるかに素晴らしい「ボーナス」を残してくれたことにちょっと感謝しつつも

これを見てると本当に「もったいない!」 と思ってしまうのだよね~

 

僕のブルースマン列伝 21

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今日のブルースマンはギタリストの ヒューバート・サムリン Hubert Sumlin

1931年11月16日2011年12月4日)は、アメリカ合衆国ブルースギタリストシンガー。ハウリヒューバートン・ウルフのバンドで活躍したことで知られる。決してうまいギタリストとは言えないが、勢いのある個性的なプレイは、ウルフのサウンドに欠かせない存在となった。

米国ミシシッピ州グリーンウッド出身でアーカンソー州ウェストメンフィス郊外の町ヒューズで育った彼は、1954年にシカゴに移住。ハウリン・ウルフの初代ギタリストウィリー・ジョンソンの後任として彼のバンドに加入する。以後、ウルフが1976年に他界するまで、20年以上の長きに渡り彼の相棒を務めた。ウルフの主要なレコーディングで彼の自由奔放なプレイを聴くことができる。特に”Hidden Charms”、”Love Me Darling”あたりのプレイは彼らしい勢いにあふれている。

ウルフ亡き後はソロに転じ、ヴォーカルも取るようになった。ソロ作はブラックトップ、ブラインド・ピッグ、トーンクールなどからリリースされている。

来日公演は、1998年(モントルー・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパンでシカゴ・ブルース・オールスターズの一員として)、2001年ジャパン・ブルース・カーニバル)と2度行っている。

2003年ローリング・ストーン誌の同年8月号カバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第65位[1]、2011年の改訂版では第43位に選ばれている。

2011年12月4日、アメリカ合衆国ニュージャージー州ウェインの病院にて、心臓発作のために亡くなった[2]。80歳没。サムリン「Wikipediaより」

 

 

この人はとにかく「ハウリン・ウルフ」の生涯の”片腕”としてずっとギターを弾いてたギタリストだ

 

 

「キャデラックレコード」という映画をご覧になった方はいるかな?キャデラック

この映画は実在した「Chess Record」の創始者レナード・チェスがモデルになったほぼ実話の話で、ドラマの中には「マディー・ウォーターズ」「リトル・ウォルター」「ハウリン・ウルフ」などの実名のキャラが登場するのだが、その中に「ヒューバート・サムリン」もいた

ドラマの中でマディーがウルフのバンドからヒューバートを強引に引き抜き、それをウルフがまた奪い返す・・・というストーリーが挿入されているが、これは実際にあったことらしい

「マディーとウルフは仲が悪い」・・・こういう噂は実際にあちこちで囁かれていたのだが、本当のところはどうなのかはわからない

ただ、映画ではマディーがわりと白人や自分の上の物に従順なのに対してウルフはまったく迎合しない「気骨の男」として描かれていた

 

さて・・・話はヒューバートに戻る 彼がどの程度のギタリストだったのかは意見が分かれるようだ

確かに余り「上手い」「器用な」ギタリストでなかったことは確かだろう 僕が実際に観たことがあるヨーロッパのブルースツアーの映像ではヒューバートがサニー・ボーイ・ウィリアムソンのバックをやるのだが見事に悲惨で、そのあとでウルフのバックに戻ったとたん「水を得た魚」のようにゴキゲンで切れ味のいいギターを弾いたことを見てもわかる

ウルフもよっぽど彼のことを大事に思ってたんだと思う ウルフが死ぬまでメインギタリストにはいつもヒューバートを起用していたのでもそれが感じられる

 

ウルフの死後・・・ソロで活動し日本にも来たヒューバート 余生はブルースをプレイすることを伸び伸びと楽しんでいたのだろうか

 

 

僕のブルースマン列伝 22

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さて、僕のブルースマン列伝も22回目になって・・・そろそろネタがつきてきたかな?

なるべくあまりメジャーじゃない人で面白いのを選んで紹介したいんだが・・・う~ん、思いつかないホップなあ・・・あ!いた!思い切り変わりダネが・・・その名は

 

ホップ・ウィルソン Hop Wilson

 

1927年、テキサス州クロケットで生まれました。本名はハーディング・ウィルソンです。子供の頃からハープを吹いていた彼は、ハープ・ウィルソンと呼ばれていて、それが訛ってホップになったと言われています。1950年以来、アイヴォリー・セミーンのバンドと活動していました。1960年代後半まではヒューストンで演奏していたようです。ブルース・フィーリングあふれる歌声と、土俗的なスティール・ギターは素晴らしい。代表作は「21 Blues Giants」「Houston Ghetto Blues」があります 以上「ラジカルビスケット」より

 

この人の演奏を初めて聴いたのは確か70年代に中村とうようがラジオでやっていた「ブルースの世界」という番組でだった

なんと普通のギターではなくスチールギター・・・横に寝かせて弾くやつね・・・を弾きながら歌うブuirusonnルースマン

そのビジュアルもなんだか奇妙なんだが、問題はその音だ

そんなギターを使ってまるでB・Bキングみたいなフレーズを弾いちゃうんだから、どこまでクレイジーなんだろう・・・

かと言って決してゲテモノではなくて実にブルージーで味のある演奏を聞かせてくれる

まあ、ゲイトマウス・ブラウンもスティール弾いてたけどあれは完全に「カントリーミュージック」だったからなあ

やっぱりそういう意味ではかなり”レア”な人ではあるわけだ

「死んだ」という話を僕は聞いてないけど今はどうしてるんだろうなあ・・・

生きてれば今年87歳かあ・・・B・Bキングより若いしなあ・・・bb

そういえばBBってまだやってるんだよねえ・・・それもすごい話だよなあ(注;この記事は2014年に書かれたものです)

 

最後は季節外れだけどこの人のクリスマスソングを

 

僕のブルースマン列伝 23

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そうそう・・・そうなんだよね 僕のブルースマン列伝に出てくるのはギタリストばかり・・・これは僕自身がギター弾きなのでついついギターものばかり聴いてたせいなんだけど、もちろんブルースの世界にはギタリストだけじゃなくてベース、ドラム、ハープなどそれぞれにジャイアントたちが一杯居たんだ・・・そういうわけで今回は初めて「ピアニスト」を紹介 その人の名は

オーティス・スパン Otis Spann

 

1930年3月21日にミシシッピー州ベルッゾーニで生まれ、1970年4月25日にシカゴで肝臓ガンのスッパンために亡くなりました。当時のミシシッピーでは有名なピアノ弾きだった父親のフライデイ・フォードの影響でピアノを弾き始めました。1947年にシカゴに出て、昼は左官屋の仕事をし、夜はバンドで演奏する生活を続け、1950年代になりマディ・ウォーターズ・バンドに参加して活躍するようになりました。並行して自己名義のアルバムも数枚出ています。

 

勿論マディーウォーターズの初期のバンドのメンバーとしてであまりにも有名なピアニストだったんだが、彼のボーカルがまた素晴らしい

マディーとは全然違うハスキーで甘い声、そして都会的センスもたっぷりあるブルースを歌えるシンガー そしてそのなんとも愛嬌のある色っぽい表情と歌い方・・・う~ん、魅力的な人だなあスパン

この歌い方・・・たまらないねえ
さて、僕のブルースマン列伝も22回目になって・・・そろそろネタがつきてきたかな?

なるべくあまりメジャーじゃない人で面白いのを選んで紹介したいんだが・・・う~ん、思いつかないホップなあ・・・あ!いた!思い切り変わりダネが・・・その名は

ホップ・ウィルソン Hop Wilson

1927年、テキサス州クロケットで生まれました。本名はハーディング・ウィルソンです。子供の頃からハープを吹いていた彼は、ハープ・ウィルソンと呼ばれていて、それが訛ってホップになったと言われています。1950年以来、アイヴォリー・セミーンのバンドと活動していました。1960年代後半まではヒューストンで演奏していたようです。ブルース・フィーリングあふれる歌声と、土俗的なスティール・ギターは

 

前から思ってるんだけど、人気のあったブルースマンって演奏の上手さだけじゃなくて人間自体の魅力がある人が多いんじゃないかな・・・

オーティスはピアノに関してはマディーの求めるミシシッピ的な泥臭いサウンドからモダンなものまで何でもこなせる「達人」だったそうだ

こんなエピソードがあったそうだ マディーが呼ばれて初めてヨーロッパで演奏ツアーをしたときのこと・・・当時(60年代初期)のヨーロッパにはまだロックも馴染みがなくて「ブルース」もビッグ・ビル・ブルーンジーやホッシュ・ホワイトのようなアコースティックの「フォークブルース」しか馴染みがなかった

そこへマディー・ウォーターズがバンドで乗り込んでギンギンのシカゴブルース・・・勿論エレクトリックだ・・・を演奏したら、観客がびっくり仰天して「こんなうるさくて野蛮な演奏は聴いてられない」とブーイングを食らって急きょオーティスをメインにした静かな演奏に切り替えたというのだ

まあ、ディランがエレキ抱えてニューポートに登場した時もそんな感じだったらしいけど・・・マディーたちもさぞ面食らったろうねえ(笑)

 

マディー・ウォーターズの初期のバンドを支えたリトル・ウォルターもこの人も早死にで本当に勿体無かったねえ・・・

 

さて、今日の動画は仲田修子バンドで「I ALMOST LOST MY MIND」オリジネーターは「アイボリー・ジョー・ハンター」という人で1950年に発表されている曲です

僕のブルースマン列伝 24

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先日、ペンギンハウスに出演しているウエクサユウジから面白い話を聞いた

「うちのベ-スのブチョウって昔”ハイタイド・ハリスのバックやってたんですよ・・・」

へ~え、そうだったんだ それで思い出した このブルースマン

ハイタイドハリス Hi Tide Harris

 

カリフォルニア州サンフランシスコ出身
1962 ドゥワップシンガーとしてデビューハリス
1966 ジミーマクラリンのオーケストラのギターリストとして最初のツアーに出る。
ローウェルフルスン ビッグママソーントンなど数多くの大物ブルースミュージシャンと出会い、彼らと共に音楽活動を行う。
1970 ロサンゼルスで活躍中のシェイキージェイクブルースバンドに加入
1972 サンフランシスコに戻り自己のバンドを結成。時代を担う若手ブルースアーティストとして期待を集める。
1973 チャーリーマッスルホワイトバンドと共に全米ツアー
1974 エリッククラプトン等を輩出したジョンメイオールバンドにリードギター兼ヴォーカルとして加入、ワールドツアーに出る。

1978 3度目の来日。京都円山公園でのフェスティバルは共演のBBキング、アルバートキ ハイタイドングをぬくほどの演奏と高く評価される。東京日比谷野音でも観客を総立ちにさせるほどのエネルギッシュでエキサイティングな演奏を展開する。日本滞在中にはまた日本の有名アーティストとのセッションアルバムを録音日本各都市を巡り、ブルースの真髄を教える。
1979 神戸で8・8ロックデーにスペシャルゲストとして出演し、日本の代表的ギタリスト山岸潤史,塩次伸次等と大セッションを展開する。逆にサンフランシスコブルースフェスティバルにはウィービングハープ妹尾、塩次などを招き日本のブルースをアメリカに紹介し大きな反響を呼ぶプロデュースを行う。日本でのセカンドアルバム「ザジェントルマンブルース」をRVCより発売。

1985 9月サクラメントブルースフェスティバルに出演後、それまで熱狂的な支持を得ていたカリフォルニアを離れ、数多い演奏活動で経験した「日本との触れ合い」をさらに充実させたいとの願いの基、活動の中心を日本に移す。
2001 「Too Good To Be Ture」をCDリリースヒビヤ
2003 「The Hey Day of Hi Tide Harris」をCDリリース
世界歴史に残るブルースシンガー辞典にも名を残すほど彼の才能は評価されている。
現在でも全国各地ブルースシンガーとして演奏活動を続けている。「彼の公式ブログより抜粋」

 

そうだあ、この人居たよなあ・・・ていうかまだ居るんだろうなあ

色々な変り種のブルースマンが多い中で彼のどこがユニークかって・・・日本に”移住”しちゃったんだよね

そのきっかけは何度目の来日の時かは知らないけど、ある日本人女性と”恋に落ちて”結婚しちゃったからみたいだ(ちなみにあのオーティス・ラッシュの奥さんも日本人・・・日本女性は人気あるんだねえ)

日本に住むようになった彼はよく「JIROKICHI」に出演していた

だから当時僕はしょっちゅう高円寺で彼の姿を見かけたものだ

その当時の彼の演奏を生で観たことは一度もないが、ある日当時僕がいた「猫屋敷」・・・あ、これはペンギンハウスの前身ね・・・の常連だったある人物がそのジロキチでの彼のライブを録ったカセット(当時だからね)を聞かせてくれた

それを聴いた僕の感想は率直に言って「若いなあ・・・」 それだけだった

実際に当時の彼はまだ30代ぐらいだったろうから若いんだろうけど音がまだギラギラしていてちょっと尖った感じ・・・まあ。当時の僕はT・ボーン・ウォーカーとかロックウッドが好きだったからそういうプレイを受け付けなかったのかも知れない(だからバディ・ガイとかルーサー・アリソンなんかも好きじゃなかった・・・今は違うけど)

ただ、その後も彼は日本での活動を続け、ブルースだけでなくゴスペルなども歌っているようだ

YOU TUBEを調べてたら2008年に中野の「ブライトブラウン」・・・ここは中央線沿線でも最もいいブルースを聞かせる店だ、ちなみに僕も2度出たことがあるよ!・・・で彼がやったライブの映像が出ていた それを見たら・・・いや実にいいシブい演奏だ

なんかとてもリラックスしていて若いころのギラギラがなくなって暖かみがある

やっぱりブルースってある年代にならないと味を出すのが難しいのかねえ・・・

 

それでブチョウとの会話・・・

「ハイタイドってどんな人だった?」

「音楽にはキビシい人でしたねえ 練習のときに曲を録音してたら怒られて”そんなことするな!自分の耳と身体で覚えろ”・・・と いい修行になりました」

「ところで彼は今どこで何をしてるか知ってる?」

「いや、それがわからないんですよね ちょっと前にも誰かから聞かれたんですが今の消息が・・・」

その後の情報で今は神奈川県に在住とのこと なんでも体調を崩していてあまり音楽活動はしてないらしいとのこと 元気になってまた活躍してほしいものですね

 

 

 


僕のブルースマン列伝 25

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さて、今日紹介するのは・・・この人を「ブルースマン」というカテゴリーに入れちゃっていいのだろうか・・・という迷いもあるのだけど、ある意味ではものすごくコアなブルースマンだと言える

ここまでいくと変り種と言うよりは「奇人変人」あるいは「ゲテモノ」と言われてしまうかもしれない そんな人

 

スクリーミン・ジェイ・ホーキンス Screamin’ Jay Hawkins だ

(1929 – 2000)
50年代初期のR & Bフリークのカリスマと呼ばれるスクリーミン・ジェイ・ホーキンスは1956年の大ジェイヒット曲である”I Put a Spell On You”をはじめ、”Little Demon”、”Frenzy”、”Frenzy” 、”Ashes”、”Constipation Blues”、”Heart Attack and Vine”、そして”On The Job”など、アルバムタイトルにも「Ass-master」や「At Home with Jay in The Wee Wee Hours」、「I Shake My Stick at You」、「Rated X (Sting S)」と意味深で気味の悪いタイトルのシングルをリリースしています。 ハイチが起源で米南部でも奴隷たちに信仰されたVoodoo(ブードゥー)にヒントを得て花火やマグネシウムを焚いた稲妻や雷鳴を演出し、棺桶で登場してドラキュラのように起き上がったり、蛇や頭骸骨(干し首)などでステージを飾り立て、そして煙草をプカリとやるとヘンリーと名付けたドクロのクチに突っ込んでそれを手に歌う奇をてらったショーを演じました。
Theatrical Rock(ロックショー)といえばAlice Cooper(アリス・クーパー)といわれますが、元祖はスクリーミン・ジェイ・ホーキンスなのです。 ホーキンスは現在でもかなり奇異ですが、当時お上品なパット・ブーン好きなママ達からは当然物議をかもし出しました。
☆この怪奇なパーフォマンスで有名になった代表曲の”I Put A Spell On You(アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー)”は1956年にOkehレコードからリリースされました。

スクリーミン・ジェイ・ホーキンスがピアノを弾きながら歌うことが多いBooDoo Swamp Boogie(スワンプ・ブギ)の”I Put a Spell on You”とは「私は貴方に魔法をかける」という意味だそうです。 元々は単にスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが去っていったガールフレンドに「帰ってきて!」という願いを込めた歌だったらしいですが、即刻放送禁止となって、恨みが積み重なってだんだん怪奇になっていったのかもしれません。 この曲を1950年代にスクリーミン・ジェイ・ホーキンスの故郷であるクリーブランドでDJをしていたAllan Freed(アラン・フリード)が取り上げたところ、これがなんと大当たり! アラン・フリードはROCK’N’ ROLL(ロックン・ロール)の名付け親といわれる反骨の士としても有名なDJです。 よってク、リーブランドがロックンロールの故郷であり、Rock and Roll Hall of Fame(ロックンロール殿堂)があるというわけです。ホーキンス

R & BのFats Domino(ファッツ・ドミノ)、テキサステナーのIllinois Jacquet(イリノイ・ジャッケイ)、ジャンプ・ブルースのWynonie Harris(ワイノニー・ハリス)、スウィングジャズのCount Basie(カウント・ベイシー)とも共演したこともあるスクリーミン・ジェイ・ホーキンスは歌だけでなくピアノを弾いたりテナーサックスも演奏したそうです。 そんなスクリーミン・ジェイ・ホーキンスの最終目的はオペラだったといいます。 悲劇的な生い立ちの話しも色々ありますが、スクリーミン・ジェイ・ホーキンス曰く、「私はこの世に真っ裸で黒人で醜く産まれて来てそのまま死んでいく。 私は美男じゃないから人々は顔を背けるけど、そんなことはどうでもいい。 私が気にかけるのは人々の幸せなんだ。 だから、もし皆を笑わせることが出来れば私の役目は果たせたということ。」 謙虚であり、なんという博愛精神の持ち主なんでしょう! それで世界中を公演して回り、70歳にしてパリで2000年に亡くなるまでに6度結婚したスクリーミン・ジェイ・ホーキンス自身が知っているだけでも婚外の子供たちも合わせるとなんと57人の子供が世界中にいるとか。(6人の妻の内ひとりは日本人だそうです。) 精力絶倫男のスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが生前語っていたという「自分の全ての子供たちと連絡を取りたい」を成就するために、ホーキンスの死後暫くの間、オフィシャルサイトで”ご落胤探し”をしていたそうです。 「Audio Video Triviaより抜粋」

 

まあ、まずは彼のステージがどんだけ奇抜で強烈だったかこれをごらん下さい

まるで「オカルト映画」のような演出と出で立ち そして過激すぎるパフォーマンス・・・

でもこれがある意味で南部のアフリカ系アメリカ人の文化の奥にに潜在していた「ブードゥー信仰」などをも象徴しているのかもしれない

そして、意外とこの「”I Put a Spell On You”」はその後「名曲」として多くのアーティストにカバーされることになる よく聴けばじつにいい曲なんだ ちなみにペンギンハウスに出演しているbehringもよく歌ってる

彼のパフォーマンスはその後の黒人を中心にしたアーティストに色々な刺激を与えていると思う JBとかマイケル・ジャクソンとかKISSとかDr.ジョンとか・・・もしかするとパンクロッカーにも

 

それでは最後に彼が1990年に日本で行ったライブ映像をゆっくりと楽しみましょうか 1990年の日本公演

奇抜な演出とか衣装とかばかりに気をとられてると意外とちゃんとしたブルースマンとしての姿を見逃してしまいそうになるけど・・・いいよね!

 

僕のブルースマン列伝 26

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さて、今日ご紹介するのは近年のギタリストの中で僕が一番好きなこの人

アルバート・コリンズ Albert Collinsアルバート

1932年10月1日1993年11月24日)はテキサス州レオナで生まれ、ライトニン・ホプキンスが母方の親戚ということもあり、ブルースにのめり込んだ。1956年にセッション・ギタリストとして初レコーディングを経験。その後『カンガルー・レーベル』と契約し、1958年にデビュー・シングル「The Freeze」を発表。その後、インストゥルメンタル曲を次々と生み出した。

1969年から1970年にかけて、『インペリアル・レーベル』から3枚のアルバムを発表。やはりインスト中心だが、徐々にヴォーカルにも意欲を見せていく

1978年、ブルース・レーベル『アリゲーター・レコード』と契約し、久し振りのスタジオ・アルバム『Ice Pickin’』を発表。同作では8曲中6曲で歌っており、シンガーとしての成長も見せた。その後『Frostbite』 (1980年) 、ライヴ盤『Frozen Alive』 (1981年) を次々と発表し、1982年には初来日公演も行う。このときの様子は、ライブ・アルバム『Live In Japan』 (1984年) としてレコード化された。

ロバート・クレイ、ジョニー・コープランドとの連名で出したセッション・アルバム『Showdown!』 (1985年) も話題となり、グラミー賞を受賞。また、1985年にはライヴエイドにも出演。1987年には、前衛サックス奏者ジョン・ゾーンのアルバム『Spillane』にゲスト参加。

1988年7月には、ジャパン・ブルース・カーニバルに出演のために再来日を果たした。同カーニバルには1991年にも出演、また翌1992年にはマウント・フジ・ジャズ・フェスティバルへも出演し、来日は計4回を数えた。 1993年11月24日、癌のために亡くなる  以上「Wikipediaよ」り抜粋

かお

 

まずこの人の顔を見てほしい⇒

恐いよねえ(笑) 僕もよく人から「演奏しているときの顔が恐い」と言われるが、この人にはとてもかなわない ブルースマンには迫力のあるお顔のプレイヤーがかなりいるが、その中でも群を抜いてるよねえ・・・

 

 

まるで「不動明王」みたいな・・・ふどう

そしてこのアルバートのギターったら本当にお不動さんのように火を背負っているような音なのだ

残念ながら生で彼の演奏を観たことはないが、ずいぶん前に富士山の麓の山中湖で開かれた「マウントフジJAZZフェスティバル」に登場したアルバートの演奏(上の動画がそれだ)を見て一発で”がつーん”とやられてしまった

 

いわゆるテキサススタイルの流れなんだろうけど(テキサス出身のギタリストはTボーンもフレコリンズディー・キングもそうだがなぜかギターのストラップを右肩にだけかける)そのフロントにハムバッキングを搭載したテレキャスターは本当に凶器のようなものに変化する オープンチューニングにされたギターにとんでもなくハイポジションにカポ(8フレットより上のときもあるようだ)をつけて弾く

なんて凶暴で気持ちいいギターなんだろう!あのよく使うフレーズ高音から低音へ

「キュイ~ン/ブリッ!/バホッ!」と下がってくるフレーズ大好きでなんとか真似してやろうと思ったけど・・・顔の恐さで追いつけない(笑)

「歌はイマイチ」という評価も多かったけどいいじゃないか!こんなにゴキゲンなギター弾いてくれるなら歌は大目にみちゃうよ~!

そういえばその「マウントフジ」のテレビ放映のとき、楽屋で彼にインタビューしたのがやはり日本でアヅマ一番凶悪なブルースギタリスト(笑)吾妻光良だった

てっきり日本を代表するギタリストの彼のことだからこのために呼ばれたのかと思ってたら、あとで本人に聞いたところ「当日テレビ局の中継スタッフとして現場にいたら”お前やれるよな”と駆り出された(彼は当時日本テレビの音声スタッフやってた)」・・・のだそうだ

それにしても61歳で亡くなって、この人も勿体無かったねえ~

 

僕のブルースマン列伝 27

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さて、今日のブルースマンは T・モデル・フォード T-Model Ford

 

「T-Model Ford」というのは元々アメリカのフォード社から1908年に発売され、以後1927年まで基t本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産された[2]。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1[3]が存在するのみである。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及した。「Wikipedia」から抜粋

 

その名前をまんまステージネームにしていた男・・・それが彼だ

 

フォードシンガー/ギタリスト。ヒル・カントリー・ブルース。1924年ミシシッピー州生まれ。本人の談では63年以来グリーンヴィルに定住。自身の弾き語りとスパムのドラムだけのファット・ポッサム97年<Pee Wee Get My Gun>、同98年<You Better Keep Still>ほかがある。98年暮に来日。[ブルース人名辞典]より

ミシシッピーDeltaBluesMan、”T-Model” FordことJames Lewis Carter氏が16日 呼吸器不全でなくなられました。 2008年からは心臓のペースメーカーをつけ、10年には2回も脳卒中にみまわれたにもかかわらず 08年から一緒にやっていた GravelRoad(シアトルのバンド)とのツアーを終わりまで続けて昨年に再度、脳卒中を患いましたが、活動は減らしたものの継続し、 King Biscuit Blues Festivalに出演したりしていました。

彼は80年代の初めに50才台の終わりで初めてBluesの世界入り。それも5人目の奥さんが彼の元を去る時にギターをくれて、彼は それで好きだったMuddy Waters や Howlin’ Wolfをまねて練習したようです。 デルタのJukeJointでソロ或いは唯一の相棒Dr、Tommy Lee Milesと 一緒に演奏を続け、バディーガイのOpeningActをやったことで評判をとり、FatPossumRecordsと契約して、 デビューアルバム・1997:Pee-Wee Get My Gun、2002:Bad Man 等5枚のアルバムを録音しました「Ain’t Nothing But a Blues」より抜粋

 

まあこの人のキャリアやブルースを始めた年齢などもびっくりするような話だがとにかくこんなイナタモデルい人がつい最近まで生きて実際活動していたことにびっくりする

以前見たドキュメント番組で「ブルースの歴史を旅する」みたいなタイトルだったが、チャーリー・パットンが働いていた「ドッカリー農場」やロバート・ジョンソンの墓なんかを訪ねて回るんだが、その道中のミシシッピーの田舎の風景があまりにも殺風景で侘しく貧しいのを見てるといまだにこういうDeep South にはブルースが残ってる・・・というよりは必要とされてるんだなあ・・・とつくづく感じたのだ

それではRLバーンサイドととともに今は亡き彼の演奏をごらん下さい

 

 

僕のブルースマン列伝 28

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今日は珍しいアコーディオンを弾くブルースマン

 

クリフトン・シェニエ Clifton Chenier ,シェニエ

 

1925年6月25日1987年12月12日)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州オペルーサス出身のザディコアーティストアコーディオンヴォーカル)。

ザディコ音楽の第一人者で、「キング・オブ・ザディコ」と称される。ルイジアナ州のトラディショナルなクレオールケイジャンなどのサウンドをブルース、ニューオリンズR&Bなどと融合させることにより新たなサウンドを開拓した。1925年、ルイジアナ州の都市オペルーサスで生まれる。1954年にデビュー。スペシャルティアーフーリーなどのレーベルから作品を発表した。1983年にはアルバム「I’m Here」でグラミー賞を受賞。1984年には、ホワイトハウスでもプレイしている。1987年に亡くなったあと、彼のバンド、レッド・ホット・ルイジアナ・バンドは、息子のC.J.シェニエがリーダーを引き継いでおり、現在も活躍中。

 

この人は正確にはブルースマンではないのかな・・・どちらかと「ザディコ」という民族音楽のプレイヤーのほうが重心が傾いてるのかもしれない

ザディコというのがまたちょっと変わってて、”ケイジャンミュージック”などとも近いのだがもっと泥臭くて言葉が「クレオール語」と言われるフランス語をベースにした独特の言葉で不思議な語感がある

ただ、彼が一般に知られるようになったのはその”本業”のほうではなくもうひとつ兼業でやっていたクリフトンR&B、ブルースのほうで50年代のR&Rブームの頃にはかなり知られるようなヒットも飛ばしている

僕が彼のアルバムを初めて手にしたのは「Arhoorie」から出ていたものだったがA面がブルースB面がザディコという構成だったが・・・なかなかよかった

今は息子さんが後を継いでやってるそうだがブルースもやってるのかな?

アコーディオンでのブルースこれっていいよねえ

 

僕のブルースマン列伝 29

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さあ、ずっと続けてきた僕のブルースマン列伝も今回を入れてあと3回で一旦終了させてもらうことにする

そのうちの2人はもうすでに決まっている 残る一人を誰にしよう・・・色々紹介したいのはあるんだけど・・・この人・・・どうしようか・・・大好きでもあり、嫌いでもある・・・彼への気持ちは複雑だ

でも、やっぱり生で自分の目で観てそのときの思いも深いこの人にした それは

オーティス・ラッシュ Otis Rush   オーテス

 

1935年4月29日[1][2][3] – )はアメリカ合衆国ミシシッピ州フィラデルフィア出身のブルースギタリストシンガー。50年代のシカゴにおいてバディ・ガイマジック・サムらとともに、リード・ギターを前面に打ち出した、新たなシカゴ・ブルースのサウンドを切り開いた。その斬新なサウンドは、当時ウェスト・サイド・サウンドと称された。

左利きながら、右利き用に弦を張ったギターを逆向きに持って弾くユニークなスタイルを持つ。同様のスタイルには、有名なところではアルバート・キングがいる。通常の弦の配列に比べて、より高い弦でのチョーキングがしやすいと言われている。

コブラ・レーベルに残した初期の録音、”All Your Love”や”Double Trouble”などは彼の代表曲となっている。ロックのギタリストを中心に、影響を受けたミュージシャンは多い。エリック・クラプトンも大きな影響を受けた一人で、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ時代に”All Your Love”を、またソロになってから”Double Trouble”、”Groaning The Blues”をカヴァーしている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、バンド名をオーティスの曲名から「Double Trouble」と名付けている。意外な所ではエアロスミスが”All Your Love”をカバーしている。

ギターのチョーキングビブラートが特徴的。彼はレコーディングの機会に恵まれていたとは言い難く、実力のわりには作品は少ない。2004年脳梗塞で倒れ、以来リハビリを行っている。日本人の妻をもち、親日家であるという

8歳の頃ギターを始める。1956年、コブラ・レーベルより”I Can’t Quit You Baby”でデビュー。この曲は、レッド・ツェッペリンのカヴァーで有名である。1958年まで同レーベルで計16曲をレコーディングをした。コブラの作品は、ラッシュは殆どギャラを手にすることはなかったという。レーベルも1959年には倒産してしまった。

続いてラッシュは、チェスの扉を叩く。しかし、ここでは1960年1月の1セッションで8曲が吹き込まれ、2枚のシングルがリリースとなった。チェスのセッションでは名作”So Many Roads”が生まれている。1969年には、編集盤アルバム「Door To Door」にこれらのシングル2枚を含む計6曲が収録された。

ラッシュが次にレコーディングをしたのは、1962年デューク・レーベルでのセッション。しかし、ここでもシングル”Homework”1枚のリリースに終わる。この曲は、後にJ.ガイルズ・バンドが取り上げるなどして幅広く知られるようになった。ラッシュ自身も1994年のアルバム「Ain’t Enough Comin’ In」で再演している。

1966年にはヴァンガードのセッション、またヨーロッパのアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルにも参加するなどした。1969年には、エレクトリック・フラッグマイク・ブルームフィールドニック・グラヴェナイタスのプロデュースの下、初のアルバム・レコーディングを行った。(「Mourning In The Morning」)ソウルの名門スタジオ、アラバマ州マッスルショールズのフェイムでレコーディングされ、ロック、ソウルのテイストを大胆に盛り込んでいる。

1971年、アルバム「Right Place, Wrong Time」のレコーディング・セッションをサンフランシスコで行うが、なぜかレコード会社のキャピトルはでき上がった作品をお蔵入りにしてしまう。この作品が日の目を見るのはレコーディングから5年も経ってから。オーティスが版権を買い取り、1976年、米国ではブルフロッグ・レコード、日本ではPヴァインがリリースした。

1970年代は他にデルマークなどから発表している。1975年には「第3回ブルース・フェスティバル」出演のために初来日。このときに、のちの夫人となるマサキと出会う。1970年代末から1980年代前半にかけて、オーティスの活動は減速していく。スタジオ作は1978年のヨーロッパ・ツアー中にレコーディングした「Troubles Troubles」を最後にしばらく、遠ざかってしまう。演奏活動のペースも落ちて行ったようである。

そんなオーティスが再び活動を活発化させたのは1985年のこと。同年、米国ツアー中にレコーディングしたライブ・アルバム「Tops」は、彼の復活を感じさせるには充分の内容だった。翌、1986年には11年ぶりの来日公演が実現。日本を代表するブルース・バンド、ブレイクダウンと全国6都市を回った。ツアーはするようになったものの、その後もスタジオ作はなかったオーティスだが、1994年、実に16年ぶりとなる「Ain’t Enough Comin’ In」をリリース。1998年には続くスタジオ作「Any Place I’m Going」をリリースし、同作はグラミー賞を受賞した。しかし、以後再び新作からは遠ざかっており、現時点ではこれが最新作である。

以上「Wikipedia」より

オーティスライブ

このブルースマンのライブを生で観たのは1975年の「第三回ブルースフェスティバル」・・・その後色々物議を呼んだあのイベントだ

僕が観た会場は日比谷野音・・・雰囲気としては夏だったし最高だった

 

最初に出たのはカントリーブルースの「ビッグ・ジョー・ウィリアムス」 以前ここで紹介した人だt02200158_0400028711976493842

 

 

その次に登場したのがピアノ弾き語りの「リトル・ブラザー・モンゴメリー」・・・この人については僕はリトルほとんど知らなくて、まあかなり色々な人とのセッションをした人だくらいの認識しかなかったのだが・・・実際このフェスが終わってみるとあの日の出演者の中でこの人の演奏が一番艶と輝きを持っていたと思った ブルースマンというよりはニューオリンズあたりでずうっとやってきた芸人というかバンドマンなんかが持っているカッコよさと粋な感じがこの人のステージからはすごく伝わってきて、聴いてる会場からなんかため息が漏れてきそうな演奏だった

 

さて、問題の人の登場となる

その前にそのバックをつとめる「ジミー・ドーキンス バンド」が登場するドーキンス

あとでムチャクチャ悪評を買った彼らの演奏を僕は聴いてて「下手でダサイなあ・・・」とは思ったが、結局その当時のアメリカの黒人の大衆音楽のトップでない部分て、そんなものだろうなあと思ったくらいだった

 

そしてオーティスが登場・・・うん、まず”上手いなあ”と思った だけどなんていうか「オーラ」みたいなものがあまり感じられなかった(それは前に観たロバート・ロックッドとは全然違っていた)

バンドとの息が合わないのは可哀相だけどそれもバンマスの責任だ ギターも歌もいいんだけど・・・生で観ているこちらに伝わってくるべき何かが足りない ブルースが「ひとつのエンタテイメント」であると考えるなら・・・それはそれでいいのだけど

後にそのバンドを仕切りきれなかったオーティスを本当にひどくこきおろしたブルース評論家に「あれは悪いのはジミーバンドではなく、それを抑えられなかったオーティスに責任がある いいかげんにしろ! やるのかやめるのか」とまで言い切られてしまったその夜のオーティス・ラッシュ・・・実際のところはどうだったんだろう

最近はYOU TUBEなどで彼のライブの様子がけっこう観れるが、それらを色々観てるとなんとなくわかってきたところがあった

ああ、彼って 気が弱いんだなあ・・・ 僕はそう思った

自分よりあきらかに格下のプレイヤーに対して毅然たる態度を取れない

観客に自分の本当の凄味を見せ付けることができない

いつもなんだか変にニヤニヤしながらオドオドしているようなちょっとダメな奴

才能や実力は本当に抜きん出て凄いのに・・・いつもなんとなく出し切れない・・・

だからたまに彼がそういう中でたまにちらっと見せるオニのようなプレイを観てしまった人々は”それ”がラッシュ見たくって彼の演奏をまた観に行ってガッカリして帰ってくる・・・そういうことが何度もあったんだろうなあ

もうずうっと昔、日本のブルースシンガー近藤房之助のオープニングアクトを当時僕が加わっていたバンドでやったことがあるが、誰よりもオーティスが好きだと公言している彼もちょっと似たようなところがあるなあ・・・そうその時は感じた

ブルースマンって”スーパーヒーロー”みたいな人ばかりだけど、こういう人たちもある意味では本当にブルースマンらしいのかもしれない

とまれオーティスが素晴らしいブルースマンであることは間違いはない こんな素晴らしいプレイができた人なんだから  過去形で言うのは2004年に脳梗塞で倒れて今はまったく音楽活動ができなくなってるそうで・・・残念だねえ

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