僕らの北沢話 18
「信じられない光景・・・」というのはその当日の「楽屋」で起こったことだ 控え室になっている部屋・・・その同じ部屋に修子たちとヒルトップの面々もいたのだが・・・ そして・・・ここからは修子から聞いた話をなるべくそのまま伝える 僕は現場には居なかったことをあらかじめお伝えしておく その控え室でペーパーナイフのメンバーは全員楽器のチューニングなどをしながら静かに出番を待っていた...
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その大学の学園祭のコンサートは学内にある大きな会場でインドアでの演奏だった 多分講堂か体育館・・・かなり大きなその会場内には修子の記憶では1000人ぐらいの観客がぎっしりと詰め掛けていたそうだ そしていよいよコンサートが始まる 最初は「仲田修子&ペーパーナイフ」の演奏から始まる 会場にいる観客たちは彼らのことはほとんど知らない・・・はずだったと思う...
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いよいよ・・・その日のメインアクト「高田渡&ヒルトップストリングバンド」がステージに登場した 客席からは当然この大御所が率いる人気バンドへの期待をこめて大きな声援が飛ぶ その様子を修子たちも演奏を終えて舞台の袖か客席の隅で見ていた ところが・・・足元もおぼつかない様子の彼ら 明らかに酔っ払っているのがわかった そしてマイクの前に座り演奏が始まった・・・が、しかしそれは「曲」にはならなかった...
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さて、その大学での学園祭が終わってしばらく経ってからのことらしいが、吉祥寺のある場所で偶然仲田修子と高田渡が遭遇したことがあったそうだ そのとき渡の方はちょっと遠くのほうから聞こえるとも聞こえないともいえないほどの声で修子に向かって何か呟いたそうだ それは小声で「国立第七養老院・・・養老院・・・」と彼女の歌の一節を歌うように・・・・...
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デパートの屋上で開かれていたイベント・・・たとえば「青空コンサート」とでもタイトルが付いてたのだろうか・・・どうかは知らないが、あることが原因でしばらくして打ち切りとなった...
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Mがプロデュースするレコーディングの録音が始まった 場所は高田馬場に今もある「BIG BOX」の中にあったスタジオ 先日すごく久しぶりにこの場所を訪れてみた BIG BOXの外観のあの妙に冷たい感じと威圧感のある様子は当時のまま 上のほうの階にあったボウリング場はまだ営業していた ただ、最上階にあったはずのスタジオはもう無くなっていてそこはレストランや酒場がならぶ「グルメフロアー」になっていた...
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その日・・・スタジオに入った修子たちは驚く事実を知ることになった なんと・・・彼女たちがまだ何もしていない段階ですでに数曲の修子のオリジナルの「オケ」が出来上がっていたということだ それも修子ではなくマネージャーの J が替わりにマイクの前に立ちオケ用の仮歌を入れたというのだ そのすべてを修子はその日来るまでまったく知らされていなかった 修子は怒った それは当然だ...
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「ドラムをどうするか」 という問題があった 周りにはちょっとあてがなかった そこで修子は以前世話になっていたピアノ講師のN氏に打診してみた N氏はジャズの世界にかなり顔がきく人だったからだ すると彼は「こういう人がいますよ」と、あるドラマーを紹介してくれた 紹介してもらったその人物に電話で打診してみるとオーケイだ・・・ということで日程を決めてその日録音スタジオに直接来てもらうことになった...
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録音はまず「ドライジンブルース」から始まった 今でも仲田修子の代表的なブルース曲としてライブではよく演奏されている曲だ この曲は修子のボーカル、僕がエレキギターでリード担当、有海がアコースティックギターでサイド、増田のベース、原田のドラムという編成にした 僕のギターは当時持っていたEPIPHONE の「RIVIERA」というセミアコ...
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原田寛治師との夢のようなレコーディングセッションが終りその後の録音作業はどうなったか・・・ 残念ながら事態はむしろ悪い方向へ進んでいた Mが色々なことを言い出したのだ 曲のアレンジや編成のことだけではなくついには修子バンドのメンバーのことにまで口を出し始めたのだ...
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「みんな、知ってる?」 レコーディングの騒動の悶着がひと段落したころ、修子が僕らにこんなことを話した 「レコード業界の全体の売り上げってどれくらいあると思う? 実はね”豆腐屋業界”とほぼ同じなんだよ」 そうだったのか メジャーのレコード会社が全部束になってもその売り上げはスーパーや豆腐屋さんに並んでいる豆腐とほとんど変わらないのか...
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ある日、北沢のアパートにそのときの音楽仲間が集まった メンバーは修子、有海、増田、瀬山、僕、そしてコンビで演奏活動をしているKとHそれに新聞青年のA次・・・そういった顔ぶれだった そのメンバーを見渡しながら修子が口を開いた 「今回の色々な騒動を経験して思ったことがあります...
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すぐに資金稼ぎのための活動が始まった 修子は今まで通りクラブでの仕事を続け、有海、増田の両名も修子の斡旋によりなんとか同じ「ハコ」の世界での仕事を手に入れた そして僕は・・・僕は「後方援護」というポストについた 彼らが仕事に出ているあいだ家の用事すべてを任される「ハウスキーパー」の役割を仰せつかった 主に全員の食事の世話が僕の一番の仕事だった...
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その頃・・・ある事件が持ち上がった まあ「事件」と名付けるような大袈裟なものじゃないのだが、ぼくにとってそれは非常に大きなインパクトがあったので今もこれをあえて「釜飯事件」と呼ぶ(笑) その日、僕は夜の食事のメニューをトリ釜飯に決めていた いつものように夕方少し前に歩いて下北沢の駅前商店街に行きなるべく安そうな食材を選んで買い物をする これが僕の日常だった...
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僕は呆然となった 彼らの恐るべき食い意地と食べっぷりに・・・それもだけど、どうしても腑に落ちないところがあった 一体奴らは何を考えているのだろう・・・勝手にやってきて人の食事を無遠慮に食ってさして感謝するわけでもなく去ってゆく そういうことがそれまでも繰り返されていてそれでも修子が「彼も可哀相だから」と大目に見ていたのをこういう風に図々しく利用するKという男に怒りを覚えた...
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こんなこともあった ある日、修子が「今日はおにぎりがいい」というので確か梅かシャケか何かを入れて数個のおにぎりを作ったのだ その晩・・・修子が帰ってきてから僕にこんなことを言った 「あなたが作ってくれたおにぎり・・・むちゃくちゃ固くってお店のホステスさんに1コあげたら”先生すごく握力強いんですね!”と言われたわよ...
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資金稼ぎのプロジェクトが始まって数ヶ月が経った ある日全員を集めて修子が言った 「みんなよくやったね、頑張ってなんとか資金が○○円貯まったよ これだけあれば都内に小さな店舗借りて店を開くことができると思うんだ」 そう・・・皆で必死の思いで節約もして稼いだ資金がなんとか予定の額になったのだ! こうして僕らのプロジェクトはいよいよ第二段階へと入ってゆくことになった...
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その不動産屋は「T不動産」という今でも庚申通りでまだ営業を続けている いわゆる「街の不動産屋」といったちょっと鄙びた風情の裏通りによくあるアパートの賃貸情報などをメインにやっている小さな個人経営のお店だ そのガラス張りの表の開き戸に貼ってあった一枚の賃貸情報に目が留まった 『高円寺駅5分地下 家賃○万円、敷金、礼金・・・』というようなことが書き込んであり店の平面図が添付されていた...
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鍵束を持って店を出る不動産屋の人について店を出る 行く先は・・・なんとすぐそこ・・・店からほんの歩数にして30歩ほどのところにその物件はあった しかし、そこには今まで見たことの無い奇妙は光景があった 「地下の店舗」というのできっと何かのビルの下なんだろう・・・そう思ってた ところが案内された場所にあったのは一軒の木造建築物 二階建ての瓦屋根の小さめな住宅のような建物だった...
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「高円寺の物件」という情報を僕らは持って北沢のアパートに戻った 修子らが待っていて「どうだった?」と訊くので僕はさっき見てきた高円寺の地下の空き店舗の話しを伝えた そのとき、なるべく個人的な思い入れなどは入れないようにつとめて客観的に冷静に話したつもりだった ところが、修子は僕の話し方の中にいつもとは違う異様なテンションが混じっているのをすぐに見抜いていた...
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