僕の吉祥寺昔話 1
さて、新しい連載を始めるにあたって僕は中央線の「三鷹駅」の駅前に来ている 吉祥寺話だというのになぜ三鷹?・・・というギモンは当然あるよね でも、今回「昔話」を書くときにこの三鷹というのはとても大きなキーポイントになってくるのだ その理由は読んでるうちにわかってくると思うけど、さてすっかり新しくなってお洒落になった三鷹駅 乗降者数も昔から多くて賑やかな街ではある そして駅から出て北口へ向かう...
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その「事件」が起きたのは1949年(昭和24年)7月15日だから僕が生まれるよりさらに3年以上前の話だ 駅の西側にあった車庫(これは今でもある)から突然7両編成の列車が無人で走り出し、駅の車止めを突き破り脱線転覆しながら駅前の実家に突っ込み、6人が死亡20人が負傷するという大惨事が起きたのだ...
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少なくとも僕が小学生ぐらいの頃までは三鷹は吉祥寺と同じくらいの賑やかさと盛り上がりを持った街だった というよりはどちらも中央線沿線の鄙びて泥臭くてぱっとしない街だったのだ 三鷹駅の北口を出て昨日話した元梅林のマンションの横を通りその先の四つ角を右に曲がりしばらく行くと開けた場所に出る 今は駐車場になっているが、ここは昔は小さな公園だった...
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その噂話・・・ちゃんと検証したわけではないのであくまで「噂話」としておくが・・・は僕が以前吉祥寺にあった実家で蕎麦屋「からまつ亭」を営業していたときに来ていたお客さんから聞いた話だ その内容とは 「あの三鷹の北口に”八丁”ってあるでしょ...
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僕が通っていた「武蔵野市立第一中学校」は戦後の昭和22年の春に武蔵野市では最初の中学校としてスタートした 武蔵野市の北西部 三鷹駅からほぼ真北にあり五日市街道に面した場所にあるその中学校にはこんな伝説が残っていた 「ここの第一期の入学生徒たち・・・彼らが入学して最初にやらされたことはグラウンドに空いた大きな穴を埋める作業だった それは戦時中アメリカ軍が落とした爆弾で空いた穴だったという...
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「中島飛行機製作所」があった広大な敷地 そこは戦後になると進駐してきたアメリカ軍が接収し、そこに大きな従軍兵士用の住宅施設(キャンプ)を建造した その名称は「GREEN PARK(グリーンパーク)」この名前はいまでもその町内の名称として残っているがちなみにここの町名は「緑町」、そこは軍人の中でも「士官クラス以上」の軍人とその家族が住むための集合住宅だった...
View Articleアコギのピックアップ取り付け No2
新しいアコギ用ピックアップが届いた SKYSONIC という中国のメーカーの「T-903」という機種だ 僕のTAYLOR110eに取り付けるマグネットタイプのピックアップを探していて偶然この機種をみつけた 最初はSUNRISEのS2という定番の多くの一流ギタリストが使ってるものにしようかと思っていたのだが、それを検索しているうちにふとこのピックアップを紹介しているサイトに辿り着いたのだ...
View Articleアコギのピックアップ取り付け No2の2
手元にやってきたSKYSONICのピックアップ 中身はこんなだった 本体の形はSUNRISEにちょっと似てる ただし材質はプラスチックでかなり軽い ちょっと安物感が漂う 本体には回転式のボリュームつまみが2つ、1つはマグネット用でもうひとつは裏側についているコンデンサマイク用と説明には書いてあった 本体から2本のケーブルが出ていて1本はそのままアウトプットジャックに直結してる...
View Articleアコギのピックアップ取り付け No2の3
さて、ピックアップの取り付けは終了した 弦も張った それからそれぞれの弦について音量をチェックしながらポールピースの高さを調整した ここがこのタイプのピックアップのいいところなのだがそれぞれの弦の振動に合わせたセッティングが可能なのだ ここが普通のエレキギターのピックアップと弦との関係と違うのだが、普通アコースティックギターに使われる弦は「ブロンズ巻き」がメインだ(金色か赤っぽいね)...
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武蔵野市北部にあった米軍キャンプ「グリーンパーク」 小学生だった僕はゲートを通り広いエントランスを歩き建物の正面玄関へと向かった 入り口は広くガラス扉を開けるとその先はやたらと幅の広い通路になっていた そこから階段を下ると地下階に出る ここに来るとちょっと驚くような光景に出くわす そこには広い・・・そう、幅は10mくらいあったと思う・・・通路がずうっと延びていてその両側に色々な店舗が連なっていた...
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僕が行きたかったところ・・・そこへ行くには僕の父が一緒でなければならなかった その地下街をずうっと抜けた奥のほうに父の職場はあった ところでその建物は全館空調が効いていた 真冬に行くとどんなに外は寒くても館内の通路にはスチーム暖房が効いていてむしろ暑いくらい すれ違うアメリカ人たちはみなTシャツ姿だった こういうところも「アメリカってすげえなああ~」と当時の日本人少年を驚かせたところだった...
View Article僕の吉祥寺昔話 9
僕が「グリーンパーク」によく行く目的はほかにもあった 当時、父の紹介でそのキャンプに住むひとつのアメリカ人家族と家族ぐるみでお付き合いをしていたのだ その家には1人息子がいて名前をジミーと言った 僕より1か2歳年下の可愛い少年だった 彼の家に招待されてごはんをご馳走になったり一緒に2家族でピクニックに行ったりした ピクニックは高尾山に行ったと思う...
View Article僕の吉祥寺昔話 10
「タカシ、お風呂沸かしておくれ」「はーい」・・・タカシは僕の本名だ 小学校当時僕の家では風呂を沸かすのは僕の役目になっていた 返事をして僕は靴を履き家の外に出る 裏側に回り風呂の「焚き口」にやってくる 昭和30年代、一般家庭の風呂は今みたいな「自動給湯式」なんてのは想像力の外 薪で沸かすのだ 勝手口の横に焚き口がある...
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あの頃・・・昭和30年代の吉祥寺周辺には子供の遊び場はいくらでもあった 遊園地なんてものはたいしたことなかったが家のすぐ裏は雑木林だったし原っぱや空き地がいくらでもあったのだ 学校が終わると家にランドセルを放り込んで僕らは遊びに出かけた まだ塾なんてほとんどなかったし、ゲームセンターにも滅多にいかず、近所の原っぱが少年たちの「テーマパーク」だった 広い空き地では「三角ベースボール」をやっていた...
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今ではすっかり見なくなった子供の遊びが・・・ずいぶんとある 「めんこ」「カン蹴り」「長馬跳び」「リリアン」「草鉄砲」「クギ刺し」・・・などなど、まだまだあるけど 今の人はどれくらい知ってるかな 今の子供たちはほとんど外で遊ばなくなってしまった まあ「ゲームソフト」とかのせいもあるんだろうけど、第一に外で遊べる場所がすっかり無くなってしまった(都会に限るけど)...
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「玉川上水で”あれ”が釣れるらしいぞ!」 その噂はたちまち小学校の男子の間に広まった 「玉川上水」とは東京都羽村市から四谷まで流れている人工の川で、江戸時代に当時の幕府の要請を受けて江戸の水不足を補うために「玉川兄弟」が指揮をして引かれた河川のことだ この川はちょうど武蔵野市と三鷹市の境を流れている 今では水流はたいしたことないのだが僕の少年時代にはかなりの水流が流れていて、ちょっとした激流だった...
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先日、じつに50年以上ぶりにその「現場」に行ってみた 三鷹駅の南口から出ると「玉川上水」は駅の真下を通って東南東に向かって流れている その川沿いに今は奇麗な遊歩道が作られていてその道を真っ直ぐ進むとやがて井之頭公園の「西園」のところに出る その南側に例の「ジブリ美術館」があるのでこの道は最近は若い女性や子供連れの家族がよく歩いている 僕が子供だった当時はそんなものはなかった...
View Article僕の吉祥寺昔話 15
・・・で、結局その釣り場で僕が釣ったのは小さな「ダボハゼ」を数匹・・・友人の中には小さなワカサギを釣ったのもいて実際に「居る」という噂は本当だった 命がけで行った釣り場もそのうちに誰も行かなくなっていった 確か学校の先生にバレて大目玉を食った子もいたっけ 玉川上水は危険な川・・・今では信じられないだろうが井之頭公園のはずれにこんな石碑が立っている...
View Article僕の吉祥寺昔話 16
先日、八ヶ岳の自宅に戻った時家にあった昔のアルバムを引っ張り出してみた そこには僕の赤ん坊の時から少年期あたりまでの我が家と家族と周りの風景画写っていて、当時の吉祥寺がこんな感じだったというのが少しわかるかも知れないので 同じ場所の現在の風景も入れてごらんいただきますね まずはこれ 実家のすぐ前の通りで映した写真だ 母と僕そして妹 左の木製の塀は「武蔵野税務署」その奥が「井之頭小学校」...
View Article僕の吉祥寺昔話 17
そして今はもう無い僕の実家の昔の写真 年代ごとに外装や中が少しずつ変わってゆく そして写ってる自動車に注目 最初は多分1951~2年 新婚の頃の両親 まだスクーターだった 周りにはまだほかの人家がなかった 僕が赤ん坊なので多分1953年頃 写ってるのは当時人気のあったオート三輪車 ハンドルがオートバイと同じなのだ...
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