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Channel: ジミー矢島の日記 | 高円寺ライブハウス ペンギンハウス
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西へ

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この休みはかみさんの誕生日と重なってたので、そのお祝いを兼ねて二人で小旅行

場所は家から車で1時間半ほどの場所・・・温泉に入って、ちょっと美味しいもの食べて
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帰り道・・・かみさんが「買い物に行きたい」というので諏訪まで・・・

ついでに「諏訪大社」の「下社」に寄る 諏訪大社は諏訪湖を挟むように「上社」と「下社」がある

僕らはいつも初詣も「上社」ばかりに行くので、かみさんは行くのは初めて

下社は諏訪の街中にある 湖に向かって南向きなので日当りもよく暖かい場所だ

あと、商人が多い場所柄か・・・社殿の造りがわりと装飾が多く女性的な感じ

ここが武士(もののふ)の霊場ともいえそうな男性的な上社とは大いに違う

実際上社は建御名方神 (たけみなかたのかみ)、下社はその奥方の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)を祭っているのだから・・・当然か

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社殿の脇に回るとおもしろいものがあった 小さな社が3つ並んでいるのだが、その一番奥・・・

隅っこの一番小さな社が「伊勢神宮」つまり「天照大御神」を祭っている・・・あの伊勢神宮のだよ!

つまり建御名方神にとっては「元カタキ」の神様だから・・・こうなるのだろうねえ

これが上社に行くと「大国主命」が似たようなメにあってる  この神は建御名方神の「オヤジ」になるんだけど、息子の反対を押し切って「イズモ」の国を明け渡してしまったといういきさつがあるのだよね・・・ここらへんの「日本神話」のいきさつは面白いよ~
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おやおや何?

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山梨からの帰途・・・僕はいつもJRの各駅停車でゆっくりと帰る

穴山駅で甲府行きの各駅に乗り甲府で始発の高尾行きに乗り換えるのだが、今まではおなじみのオフホワイトにブルーのこの列車・・・「115系」というのだそうだが・・・だったのだが
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今回やってきたのはこんな列車(下左)・・・ダイヤ改正と消費税の影響かな?

さて、列車がホームに停まった・・・ところが・・・ドアが開かない!

なんだ、車掌は何やってんだ・・・そう思いながら列車のドアのところをよく見るとこんな(下中)ものがついていた

それで合点がいった 僕がたまに乗るローカルの小海線の列車にもこういうのが付いてたから知ってたんだ これは乗客が自分でこのボタンを押してドアを開けるスイッチなのだ

内側にはこんなスイッチがやはり付いている(下右)
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このスイッチは元々は寒冷地などでドアの開けっぱなしによる車内の冷えを防ぐためのメカニズムでまあ「便利」といえば便利なんだけど、この日の甲府はシャツ1枚でも充分なくらい暖かい・・・鉄道側の意図がまったく見えないのだ
140417_1054 列車の中はこんな感じ

今までの115系が4人対面式の座席だったのにこれでは・・・旅行気分には浸れない

とてもこの中でビ-ル飲んで弁当食えないよなあ・・・JRさんも余計なことしてくれた!

おまけに途中の駅で案の定ドアが開かなくて戸惑う乗客が連続・・・

仕方ないので僕が2度もドアを開けてやったんだ

甲府駅に着いて僕は思わず車掌さんに言ってやったよ~

「みんなドアが開かなくて困ってたよ。ちゃんとお知らせしてやんないと・・・」

 

甲府からはいつもの115系だった あ~よかった ではちょっとうたた寝を。。。。。。

あとで調べたらやっと見つけたよ⇒211系 と言うんだねえ・・・もっとちゃんとインフォしなくちゃ!

 

 

やっとできた

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前から取り掛かっていたPA席の「かさ上げ工事」がやっとできた

今まで客席のカウンター席と高さが同じでPA席からのステージ視認がやり辛かった

普通多くのライブハウスではPA席はちょっと高めに設定されている

僕は背が高いのだがその僕でさえちょっと辛い 「オ-ルスタンディング」のライブなんかじゃ席のところにプラスティックのボックスを置いてその上に立ってやっとなんとか見えるといった状態

本当に苦労するのだ

そこで、今回はまず床を15センチ上げた それからスチールラックを組んでミキサーを乗せる台を製作、やはり16センチほど上げてその空いた空間に今まで左側にあった「リバーブ、ディレイ、コンプレッサー」のコンポを入れた

メインミキサーの下にパソコンの本体を入れた

これでだいぶ使い勝手がよく・・・なるはず

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タイヘンだったのが裏側のケーブル類の処理 だいぶ前にかなりっすっきりさせてまとめておいたのだが、久しぶりに開けてみるとまたケーブル同士が絡み合ってタイヘンなことに

根気よく1本1本ずつほぐしていって・・・新しい置き場にあわせて這わすのだ・・・

実にメンドウな作業なんだけどこれをイイカゲンにするとあとでタイヘンになるのだ!

いやあ・・なんとか終わったよ~ 今日はちょうどパンクのイベント・・・間に合った!
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僕のブルースマン列伝 26

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先日家に帰ったとき僕の部屋に置いてあった「来日ブルースマン全記録」という本を読み返していCCF20140420_00000た これはたくさんの貴重な写真とともにその当時の来日したブルースマンやイベントについて色々な人がコメントや情報を載せていてとても便利で面白い本だ

ところが、それを読んでいて僕はひとつ間違っていたことを発見した「僕のブルースマン列伝16」で紹介したRLバーンサイド R.L. Burnside

のエピソードで「日本に来て・・・」という下りは丸々「T・モデル・フォード」のことだった!

どうもすみません

 

それでせっかくなんでこのブルースマンを紹介しようと思う

 

「T-Model Ford」というのは元々アメリカのフォード社から1908年に発売され、以後1927年まで基t本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産された[2]。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1[3]が存在するのみである。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及した。「Wikipedia」から抜粋

 

その名前をまんまステージネームにしていた男・・・それが

 

Tモデル・フォード(T-Model Ford)フォード

シンガー/ギタリスト。ヒル・カントリー・ブルース。1924年ミシシッピー州生まれ。本人の談では63年以来グリーンヴィルに定住。自身の弾き語りとスパムのドラムだけのファット・ポッサム97年<Pee Wee Get My Gun>、同98年<You Better Keep Still>ほかがある。98年暮に来日。[ブルース人名辞典]より

ミシシッピーDeltaBluesMan、”T-Model” FordことJames Lewis Carter氏が16日 呼吸器不全でなくなられました。 2008年からは心臓のペースメーカーをつけ、10年には2回も脳卒中にみまわれたにもかかわらず 08年から一緒にやっていた GravelRoad(シアトルのバンド)とのツアーを終わりまで続けて昨年に再度、脳卒中を患いましたが、活動は減らしたものの継続し、 King Biscuit Blues Festivalに出演したりしていました。

彼は80年代の初めに50才台の終わりで初めてBluesの世界入り。それも5人目の奥さんが彼の元を去る時にギターをくれて、彼は それで好きだったMuddy Waters や Howlin’ Wolfをまねて練習したようです。 デルタのJukeJointでソロ或いは唯一の相棒Dr、Tommy Lee Milesと 一緒に演奏を続け、バディーガイのOpeningActをやったことで評判をとり、FatPossumRecordsと契約して、 デビューアルバム・1997:Pee-Wee Get My Gun、2002:Bad Man 等5枚のアルバムを録音しました「Ain’t Nothing But a Blues」より抜粋

 

まあこの人のキャリアやブルースを始めた年齢などもびっくりするような話だがとにかくこんなイナタモデルい人がつい最近まで生きて実際活動していたことにびっくりする

以前見たドキュメント番組で「ブルースの歴史を旅する」みたいなタイトルだったが、チャーリー・パットンが働いていた「ドッカリー農場」やロバート・ジョンソンの墓なんかを訪ねて回るんだが、その道中のミシシッピーの田舎の風景があまりにも殺風景で侘しく貧しいのを見てるといまだにこういうDeep South にはブルースが残ってる・・・というよりは必要とされてるんだなあ・・・とつくづく感じたのだ

それではRLバーンサイドととともに今は亡き彼の演奏を⇒ごらん下さい

これらを見てると彼がカントリーブルースマンがよくやる「1小節が4拍だったり2拍だったり」どころではなく「3拍・・・1拍?」みたいなところが頻発する

つまりドラムなど合わせててもビートの「表と裏」がひっくり返っちゃうんだ

これはほかのブルースミュージシャンがセッションやって怒るのも無理はないね(笑)

 

 

 

 

やっと完成

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ずうっと続けてきたPA席の卓まわりのリニューアルがほぼ完成

今日はラックの端に長い柱を立ててそこにライトや時計を置けるように、と、左のパソコン本体とイコライザーを重ねた上に台をこしらえた

これで使い勝手はまるで飛行機の操縦席みたいに・・・なったかな?

まあ、とりあえずしばらくはこれでいこうかと・・・いやもう疲れたよ(笑)
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僕のブルースマン列伝 27

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今日、ペンギンハウスに「マメルダ」というアコーディオン奏者が出演した

それで思い出した・・・この人

クリフトン・シェニエ Clifton Chenier ,シェニエ

 

 

1925年6月25日1987年12月12日)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州オペルーサス出身のザディコアーティストアコーディオンヴォーカル)。

ザディコ音楽の第一人者で、「キング・オブ・ザディコ」と称される。ルイジアナ州のトラディショナルなクレオールケイジャンなどのサウンドをブルース、ニューオリンズR&Bなどと融合させることにより新たなサウンドを開拓した。1925年、ルイジアナ州の都市オペルーサスで生まれる。1954年にデビュー。スペシャルティアーフーリーなどのレーベルから作品を発表した。1983年にはアルバム「I’m Here」でグラミー賞を受賞。1984年には、ホワイトハウスでもプレイしている。1987年に亡くなったあと、彼のバンド、レッド・ホット・ルイジアナ・バンドは、息子のC.J.シェニエがリーダーを引き継いでおり、現在も活躍中。

 

この人は正確にはブルースマンではないのかな・・・どちらかと「ザディコ」という民族音楽のプレイヤーのほうが重心が傾いてるのかもしれない

ザディコというのがまたちょっと変わってて、”ケイジャンミュージック”などとも近いのだがもっと泥臭くて言葉が「クレオール語」と言われるフランス語をベースにした独特の言葉で不思議な語感がある ⇒こういう

ただ、彼が一般に知られるようになったのはその”本業”のほうではなくもうひとつ兼業でやっていたクリフトンR&B、ブルースのほうで50年代のR&Rブームの頃にはかなり知られるようなヒットも飛ばしている

僕が彼のアルバムを初めて手にしたのは「Arhoorie」から出ていたものだったがA面がブルースB面がザディコという構成だったが・・・なかなかよかった

今は息子さんが後を継いでやってるそうだがブルースもやってるのかな?

アコーディオンでのブルース⇒これ っていいよねえ

 

 

探して~!

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お願いがあります 下のフライヤーを読んでください

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ミノルBグッドバンドのベーシストでおなじみの安威嗣人さんのベースが無くなったそうだ

公園でベースを置いてうたた寝をしているあいだに無くなったという

ベースが独りで歩いてくわけないから・・・これは誰かが故意に?

だとしたら許せないぞお!!

安威くん 非常にショックを受けている

悪戯で持ってったにしろ欲しかったたにしろ、楽器はその人の家族か分身みたいなもの

持ってった人はゼヒ返してやってほしい

そしてどこかで見かけた人居たらゼヒ連絡してやって下さい こんな↓ベースです
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お知らせ

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本日24日 ペンギンハウスは都合により 夜12時で閉店させていただきます ご迷惑かけますが よろしくお願いします

深夜のレコーディング

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昨日はペンギンハウスを12時に早仕舞いして泥窪のレコーディングをした

一番重要なボーカル入れの作業

プロデューサー兼ディレクター仲田修子も参加して、緊張感たっぷりに・・・

じつに5時間

みごと無事終了したよ!

終わって外へ出たら・・・もう夜が開けていた 久しぶりの朝帰り
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今日と明日

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いいお天気だ・・・そして暖かい・・・今日からゴールデンウィークも始まったのだね

今日26日明日27日は「びっくり大道芸フェスティバル」というタイトルで高円寺の街角のあちこちで大道芸のパフォーマーたちが色々な芸を披露する なかなかレベルの高い人たちばかりで楽しいよ! あとペンギンハウスのすぐ裏の公園では「アート楽市」というフリーマーケットも開かれている

 

僕もゆっくり見たいけど・・・忙しい

昨日までに終了した泥窪のレコーディングのこんどはトラックダウンの作業が待っている

これがまたけっこう手間がかかるのよね~

 

でもいいもの作らなきゃ! 皆さん お楽しみに ちなみに6月13日にレコ発ライブやるよ~
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僕のブルースマン列伝 28

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さあ、ずっと続けてきた僕のブルースマン列伝も今回を入れてあと3回で一旦終了させてもらうことにする

そのうちの2人はもうすでに決まっている 残る一人を誰にしよう・・・色々紹介したいのはあるんだけど・・・この人・・・どうしようか・・・大好きでもあり、嫌いでもある・・・彼への気持ちは複雑だ

でも、やっぱり生で自分の目で観てそのときの思いも深いこの人にした それは

オーティス・ラッシュ Otis Rush   オーテス

 

1935年4月29日[1][2][3] – )はアメリカ合衆国ミシシッピ州フィラデルフィア出身のブルースギタリストシンガー。50年代のシカゴにおいてバディ・ガイマジック・サムらとともに、リード・ギターを前面に打ち出した、新たなシカゴ・ブルースのサウンドを切り開いた。その斬新なサウンドは、当時ウェスト・サイド・サウンドと称された。

左利きながら、右利き用に弦を張ったギターを逆向きに持って弾くユニークなスタイルを持つ。同様のスタイルには、有名なところではアルバート・キングがいる。通常の弦の配列に比べて、より高い弦でのチョーキングがしやすいと言われている。

コブラ・レーベルに残した初期の録音、”All Your Love”や”Double Trouble”などは彼の代表曲となっている。ロックのギタリストを中心に、影響を受けたミュージシャンは多い。エリック・クラプトンも大きな影響を受けた一人で、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ時代に”All Your Love”を、またソロになってから”Double Trouble”、”Groaning The Blues”をカヴァーしている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、バンド名をオーティスの曲名から「Double Trouble」と名付けている。意外な所ではエアロスミスが”All Your Love”をカバーしている。

ギターのチョーキングビブラートが特徴的。彼はレコーディングの機会に恵まれていたとは言い難く、実力のわりには作品は少ない。2004年脳梗塞で倒れ、以来リハビリを行っている。日本人の妻をもち、親日家であるという

8歳の頃ギターを始める。1956年、コブラ・レーベルより”I Can’t Quit You Baby”でデビュー。この曲は、レッド・ツェッペリンのカヴァーで有名である。1958年まで同レーベルで計16曲をレコーディングをした。コブラの作品は、ラッシュは殆どギャラを手にすることはなかったという。レーベルも1959年には倒産してしまった。

続いてラッシュは、チェスの扉を叩く。しかし、ここでは1960年1月の1セッションで8曲が吹き込まれ、2枚のシングルがリリースとなった。チェスのセッションでは名作”So Many Roads”が生まれている。1969年には、編集盤アルバム「Door To Door」にこれらのシングル2枚を含む計6曲が収録された。

ラッシュが次にレコーディングをしたのは、1962年デューク・レーベルでのセッション。しかし、ここでもシングル”Homework”1枚のリリースに終わる。この曲は、後にJ.ガイルズ・バンドが取り上げるなどして幅広く知られるようになった。ラッシュ自身も1994年のアルバム「Ain’t Enough Comin’ In」で再演している。

1966年にはヴァンガードのセッション、またヨーロッパのアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルにも参加するなどした。1969年には、エレクトリック・フラッグマイク・ブルームフィールドニック・グラヴェナイタスのプロデュースの下、初のアルバム・レコーディングを行った。(「Mourning In The Morning」)ソウルの名門スタジオ、アラバマ州マッスルショールズのフェイムでレコーディングされ、ロック、ソウルのテイストを大胆に盛り込んでいる。

1971年、アルバム「Right Place, Wrong Time」のレコーディング・セッションをサンフランシスコで行うが、なぜかレコード会社のキャピトルはでき上がった作品をお蔵入りにしてしまう。この作品が日の目を見るのはレコーディングから5年も経ってから。オーティスが版権を買い取り、1976年、米国ではブルフロッグ・レコード、日本ではPヴァインがリリースした。

1970年代は他にデルマークなどから発表している。1975年には「第3回ブルース・フェスティバル」出演のために初来日。このときに、のちの夫人となるマサキと出会う。1970年代末から1980年代前半にかけて、オーティスの活動は減速していく。スタジオ作は1978年のヨーロッパ・ツアー中にレコーディングした「Troubles Troubles」を最後にしばらく、遠ざかってしまう。演奏活動のペースも落ちて行ったようである。

そんなオーティスが再び活動を活発化させたのは1985年のこと。同年、米国ツアー中にレコーディングしたライブ・アルバム「Tops」は、彼の復活を感じさせるには充分の内容だった。翌、1986年には11年ぶりの来日公演が実現。日本を代表するブルース・バンド、ブレイクダウンと全国6都市を回った。ツアーはするようになったものの、その後もスタジオ作はなかったオーティスだが、1994年、実に16年ぶりとなる「Ain’t Enough Comin’ In」をリリース。1998年には続くスタジオ作「Any Place I’m Going」をリリースし、同作はグラミー賞を受賞した。しかし、以後再び新作からは遠ざかっており、現時点ではこれが最新作である。

2004年初頭に脳梗塞で倒れた。その直後の2004年春のブルース・カーニバル公演へは、リード・ギタリストにカルロス・ジョンソンを立てて来日し、ステージにかける意気込みを見せた。しかし、以後は後遺症から演奏活動の停止を余儀なくされている。

2007年12月には、生誕の地、ミシシッピ州フィラデルフィア建てられた自身の記念碑の除幕式に出席。演奏こそしなかったものの、久々に公の場に姿を現した  以上「Wikipedia」より

 

オーティスライブ

このブルースマンのライブを生で観たのは1975年の「第三回ブルースフェスティバル」・・・その後色々物議を呼んだあのイベントだ

僕が観た会場は日比谷野音・・・雰囲気としては夏だったし最高だった

 

最初に出たのはカントリーブルースの「ビッグ・ジョー・ウィリアムス」 もう”伝説”くらいになってるこジョーの老齢のブルースマンの演奏は正直期待”以上”でも”以下”でもなかった まあ消えゆく民俗芸能の姿なんだなあ・・・そう思った

 

 

その次に登場したのがピアノ弾き語りの「リトル・ブラザー・モンゴメリー」・・・この人については僕はリトルほとんど知らなくて、まあかなり色々な人とのセッションをした人だくらいの認識しかなかったのだが・・・実際このフェスが終わってみるとあの日の出演者の中でこの人の演奏が一番艶と輝きを持っていたと思った ブルースマンというよりはニューオリンズあたりでずうっとやってきた芸人というかバンドマンなんかが持っているカッコよさと粋な感じがこの人のステージからはすごく伝わってきて、聴いてる会場からなんかため息が漏れてきそうな演奏だった

 

さて、問題の人の登場となる

その前にそのバックをつとめる「ジミー・ドーキンス バンド」が登場するドーキンス

あとでムチャクチャ悪評を買った彼らの演奏を僕は聴いてて「下手でダサイなあ・・・」とは思ったが、結局その当時のアメリカの黒人の大衆音楽のトップでない部分て、そんなものだろうなあと思ったくらいだった

 

そしてオーティスが登場・・・うん、まず”上手いなあ”と思った だけどなんていうか「オーラ」みたいなものがあまり感じられなかった(それは前に観たロバート・ロックッドとは全然違っていた)

バンドとの息が合わないのは可哀相だけどそれもバンマスの責任だ ギターも歌もいいんだけど・・・生で観ているこちらに伝わってくるべき何かが足りない ブルースが「ひとつのエンタテイメント」であると考えるなら・・・それはそれでいいのだけど

後にそのバンドを仕切りきれなかったオーティスを本当にひどくこきおろしたブルース評論家に「あれは悪いのはジミーバンドではなく、それを抑えられなかったオーティスに責任がある いいかげんにしろ! やるのかやめるのか」とまで言い切られてしまったその夜のオーティス・ラッシュ・・・実際のところはどうだったんだろう

最近はYOU TUBEなどで彼のライブの様子がけっこう観れるが、それらを色々観てるとなんとなくわかってきたところがあった

ああ、彼って 気が弱いんだなあ・・・ 僕はそう思った

自分よりあきらかに格下のプレイヤーに対して毅然たる態度を取れない

観客に自分の本当の凄味を見せ付けることができない

いつもなんだか変にニヤニヤしながらオドオドしているようなちょっとダメな奴

才能や実力は本当に抜きん出て凄いのに・・・いつもなんとなく出し切れない・・・

だからたまに彼がそういう中でたまにちらっと見せるオニのようなプレイを観てしまった人々は”それ”がラッシュ見たくって彼の演奏をまた観に行ってガッカリして帰ってくる・・・そういうことが何度もあったんだろうなあ

もうずうっと昔、日本のブルースシンガー近藤房之助のオープニングアクトを当時僕が加わっていたバンドでやったことがあるが、誰よりもオーティスが好きだと公言している彼もちょっと似たようなところがあるなあ・・・そうその時は感じた

ブルースマンって”スーパーヒーロー”みたいな人ばかりだけど、こういう人たちもある意味では本当にブルースマンらしいのかもしれない

とにかくこの⇒プレイ これだけは誰にも追いつけないんだよねえ

 

 

 

 

いよいよ大詰め

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昨日29日は泥窪のレコーディングの最終日

録り直しの1曲のみの録音だった

今回は彼が自分でギターを弾きながらの一発録り

前回・・・ギターだけを先に録ってそのあとに歌をかぶせたのだがどうもうまくいかない

ここらへんが彼が「ブルースマン」たる由縁かも知れない

ギタ-をアンプにつなぎそちらの音はライントマイクで そしてボーカル

「はい、テイクワン」 演奏が始まる・・・おっ、一箇所歌詞を噛んじゃった

「はい、テイクツー」 うん、いい感じ・・・いいぞ そしてエンディング そこで突然頭上から「カツカツカツ」yという何かで叩くような音が・・・上の店「まちおか」のお客の足音 どうもパンプスか何か履いた人が歩いてるようだ う~ん、いいところだったのに(泣)・・・

「はい、気を取り直して テイクスリー」 なんとか無事に終りまで

そして押さえでもうワンテイク・・・やっと終わった

昼間の録音はやっぱり難しいねえ さあ、これからいよいよ トラックダウンだ~
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僕のブルースマン列伝 29

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さあ、今回を入れてあと二回になったこのシリーズ 今日は・・・

 

僕は今まで生で観ておいて本当によかったと思うライブが2つあるひばり

そのひとつは「新宿こま劇場」で観た 美空ひばり・・・誘われて行く前はそれほど関心もなかったのだが・・・もう観たあとはそのすごさに本当に感動したのだ! まあ、この話はいずれするとして

もう一つ、もう一人・・・それはブルースマンの中でも一段と大きな輝きを持っていた不世出のブルースマン

ライトニン・ホプキンス Lightnin’ Hopkins  だ!ホプキ

 

1912年3月15日1982年1月30日)はアメリカブルースミュージシャン。本名はサム・ジョン・ホプキンスSam John Hopkins)。

1912年テキサス州センターヴィル生まれ。少年時代の1922年に、ブラインド・レモン・ジェファーソンに出会いギターを教わる。1927年にはいとこであるテキサス・アレクサンダーと共に テキサスにあるレインボー・シアターで演奏する。 レコードデビュー当時、よくコンビで演奏をしていたピアニストサンダー・スミスのサンダー(雷)にちなんで自らをライトニン(稲妻)と名乗るようになる。
黒いサングラスに葉巻をくわえたスタイルで演奏し、アメリカン・フォーク・ブルース・フェステイバルに出演したり、マンス・リプスカムと共演したりした。

初録音は1946年で、1959年に白人により再発見され、ようやく世界にその「ライトニン節」を轟かせる事になる。 アラジン・レコードから初のシングル「Katie Mae Blues」をリリースし、ヒットを記録。 その後もR&Bチャートにランク・インするような曲を次々にリリースし、50年頃は「ハロー・セントラル」がビルボードにチャートインするほど大変な人気ぶりで、カントリー・ブルース界でも極めて稀な存在となり、戦争を題材にした歌などもリリースする。

1930年代は放浪していることが多くヒューストンに移り住んだ後、ジューク・ジョイントで演奏やストリートでブルースを歌っていた。

ケンカが原因で、刑務所送りになったという辛い過去がある。 従事した仕事は架橋工事で、宿舎では寝る時も足を鎖で繋がれ、翌朝の食事の時に外されるなど、過酷な労働・生活が続いた。 彼の音楽には人生観がにじみ出て、ある種の安らぎ、人生の哀切や達観、希望が満ち溢れた音に、多くの人々が魅了されていった。

ライブではアメリカ各地の大学・ヨーロッパ等、どこも超満員だった。 語彙が豊富で、頭の回転の早い彼による心の奥底を探るような歌詞は、彼自身の気分によって抱腹絶倒の内容になることも、痛ましく荒涼とした内容になることもあった。彼はその場の雰囲気に合わせて即興で歌詞を作ってしまうことでも有名で、そのためライヴ・レコーディングでは、しばしば予想を超える内容になる等、エピソードには事欠かない。

1960年代の後半、ライトニンのホームタウンであるテキサス州ヒューストンで撮られたドキュメンタリー・フィルム『ライトニン・ホプキンスのブルース人生』には、飾らない素顔や生活ぶりが記録されている。

生涯に百枚以上のアルバムをリリースしていると言われ、現在もブルース・ファンに人気の高いギタリストである。ブルースの歴史を研究する上で、欠かす事の出来ない存在である。

代表作は、『アラジン・レコーディングス』(1946-1948) 『ライトニン・ホプキンス』(1959) 『モジョ・ハンド』(1960) 『ライトニン・ストライクス』(1962) 『テキサス・ブルースマン』(1962)など多数。

1978年に最初で最後の日本公演を行っている。 1982年により死亡。 以上「Wikipedia」より

 

そう、この1978年の最初で最後の日本公演を僕は中野サンプラザに観に行ったのだ

ライトニンが日本に来る・・・こんな凄いことが本当に実現するとは・・・飛行機が大嫌いな彼を海を越えて日本にまで連れてくるのは本当に大変だったそうだ 何度も「俺はやっぱり行かない」とゴネるのを必死になだめて何とか連れてきたそうだ

 

さて、78年というと日本での一時的なブルースブームもすっかり下火になっていて、この時のサンプラザも一階席がまあまあ埋まるという程度(3年前の日比谷は満席だったのに)だった

この日はライトニンの前に前座が出た 前座と言うのはちょっとかわいそうな気もするが・・・「フォークブルース」ファンの間で60年代には絶大な人気を博した二人組み ブラウニー・マギー&サニー・テリーである この名前としてはあまりにビッグな二人なんだが、前回のビッグ・ジョー・ウィリアムス同様すでに過去のものとなった芸能をまだ聴き手がいるということでなんとか続けている年老いた芸人の域を出ていなかったマギー

ただ、最初に紹介されて二人が出てくるときブラウニーは大きく片足を引きずりながら、サニーはスタッフに手を引かれながら登場した サニー・テリーが盲目なのは先刻ご承知だったが、ブラウニー・マギーが小児マヒだというのはなんとなく知ってたが様子ではかなり重症のよう

そういえば昔のアメリカ南部の黒人のうち身体に障害のあったものはミュージシャンか芸人になるくらいしか生きるすべがなかった・・・そんなエピソードを聞いたことがあるが彼らはまさにそういう人たちだったのだね

 

彼等がなぜライトニンのオープニングアクトに選ばれたか・・・僕の想像だがそれは確か60年代にファースト発表されたアルバム「FIRST MEETING OF BLUSS GIANTS」があったからじゃないかな

このアルバムにはライトニン、ブラウニー&サニーそしてビッグ・ジョーウィリアムスが参加して4人でセッション的に演奏しているのだが、この中でライトニンとブラウニーが即興で掛けあいをする曲があってそれがものすごくスリリングで当時はまだ絶好調だった両者の気迫とプレイが武術の果し合いのようで面白かった もしかすると彼らを呼んだ主催者側はそういうのを期待していたのかも知れなかった

しかし、年月と老化というものは残酷だ 年老いてすっかり往年の輝きを失った二人 それにお互いが実はすごく仲が悪い・・・そういうことも影響していたのかも知れない この二人の演奏を観ていて「大丈夫だろうか・・・」 と肝心のライトニンの演奏まで不安の暗雲が客席にいた僕らを覆いはじめた

 

そしてしばらくのインターバルを挟んでいよいよ御大の登場だ まずバックアップメンバーがステージに立つ・・・おや、僕らはちょっとした違和感を感じた ドラムは黒人だがベースはアジア系・・・たぶん日本人・・・それもなんだかブルースとは縁のなさそうなロン毛の若者・・・ちょっと不安がよぎる

 

そしてMCの紹介・・・「ラ~イトニン・ホプキ~ンス!」とか言っただろうか

その声にあわせてステージ上手からライトニンが登場する

その瞬間に僕らは一撃でやられてしまった

 

ものすごいオーラというか”気”が彼の身体から吹き上がっていた ただならぬ存在感・・・す、すごい!

その格好だが、オレンジ色のスーツその胸元にはスパンコールがキラキラ光ってる 両手晩年のほぼすべての指には大きな指輪が・・・そしておなじみのサングラスをかけてステージ中央までスタスタと軽い足取りで進みマイクに向かいニヤっと笑う うわ~!ライトニンだ あのビデオでも散々みていた不適な笑い そして印象的なあのだみ声で一言二言なにか喋るといきなりギターを「ンジャッ!」と弾き曲が始まる おお!いきなり「モジョハンド」ライトニンのおはこ中のオハコだあ!

もうもう僕はその場に自分がいるだけで幸福な気分になっていた あの伝説は本当だった ダウンホームブルースマンの中でも抜きん出て泥臭くて魅力的な「ザ・ブルースマン」ライトニン・ホプキンスは本当に凄かったのだ

演奏中もたとえば照明の光をギターに反射させて客席に向けたり、観客の女性(外国人だった)をCCF20140429_00000ちょっとエッチなジョークでからかったり(多分)客席とのコールアンドレスポンスを本当にすごく大事にしているのがよくわかる

わりと新しい当時のダンスナンバーをやったりとまだまだ色気を失ってない貪欲なおっさんの面をたくさん見せてくれた

急きょ集められたらしいバックはヒドかったがそれでもライトニンの凄さはそんなものでほとんど薄められることはなかった

さすがに66歳という年齢はあの若かった頃のドギツく光るようなブラックネスにやや艶が無くなったような感じは少しはあったが、それでもまだまだ輝き続けるため「燃料」はたっぷりあるように思った そういえば亡くなった高田渡が言ってたのを思い出した「ライトニンっていつも着てるものがお洒落なんだよな、あれっていつも”女”がまわりにいたんだと思うよ・・・」って

 

 

 

そのわずか4年後に亡くなってしまった彼の演奏をもう二度と生では観ることはできないが、あれから36年も経った今でもそろそろ当時の彼の年齢に近付きつつあるかつてのブルースファン青年の記憶にはいまだに鮮明にあの姿が焼きついている

 

もう2度と・・・決して出てこない一人の素晴らしきブルースマンが

 

では最後に彼のごく初期の映像⇒これ と 晩年(1982年亡くなる直前だ)の映像⇒これ をごらん下さい

 

いよいよ次回は 最終回・・・さて、誰が・・・

 

 

 

僕のブルースマン列伝 30

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さて、戦前~戦後と色々なブルースマンを僕のまったく個人的な好みとチョイスで紹介してきた「僕のブルースマン列伝」 いちおう締めくくりとして今回の最終回 この人を紹介するのはあまりに”ベタ”過ぎるので「なんだよ~」と言われそうだがやはり紹介しないわけにはいかない事情があるのだ それは

 

B.B.キング B. B. King

本名Riley B. King 、ビー・ビー・キング、1925年9月16日 – )は、アメリカ合衆国ブルースギタきんぐリスト、歌手作曲家1950年代から現在まで常に第一線で活躍してきたブルース界の巨人。

1925年9月16日ミシシッピ州北西部のイッタベーナのプランテーションに生まれる[2]。幼少の頃は小作人として働く。その後ギターを手にし、幼くして頭角を現し始める。T-ボーン・ウォーカーロニー・ジョンソンと言ったギタリストの音楽だけではなく、ゴスペル音楽にも触れていたという。

1943年に州内のインディアノーラに移住し、その3ヵ月後にはテネシー州メンフィスに移り住む。キングはそこで、いとこのブッカ・ホワイトに教わりながらギター・テクニックを磨いていく。やがて彼は、メンフィスのラジオ局WDIAでDJをするようになった。そのときに番組のスポンサーだった飲料の名前から「The Pepticon Boy」と名乗っていた[3]のが後に「Beale Street Blues Boy」となり、略して「Blues Boy」と呼ばれるようになった。これのさらなる略称が「B.B.」であり、名前の由来である[4]1949年、ナッシュビルのレーベル、ブレット・レコードに4曲を吹き込み、レコード・デビューを果たやんぐした。翌年には、ロサンゼルスのモダン/RPMと契約する[4]1951年末にシングル「3 O’clock Blues」がR&Bチャートの1位を記録[4]。これを機に以降、数多くのヒットを世に送り出す存在となった。1964年には、後に多くのアーティストが取り上げるスタンダード・ナンバーとなった「Rock Me Baby」を発表。1969年に発表された「Thrill Is Gone」のリメイク(原曲はロイ・ホーキンス)では翌年のグラミー賞を受賞した[5]。1970年代に入っても彼の活躍は続き、1951年から1985年までの間に実に74回もビルボードのR&Bチャートに曲を送り込んでいる。

1980年代から2000年までの間は、アルバムのリリースは少なくなる一方、テレビのショーへの出演やライブへの出演が多くなり、特にライブの回数は年に300回にも達していたという[4]1988年にはU2と「When Love Comes To Town」で共演、同曲は翌年にはシングルとしてヒットした。1993年には多くのブルース・ミュージシャンをゲストに迎えたアルバム『Blues Summit』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞[5]1997年のアルバム『Deuces Wild』にはヴァン・モリソンドクター・ジョンローリング・ストーンズウィリー・ネルソン等、B.B.キングを慕うアーティストが参加。1998年には長いキャリアにおいて初のセルフ・プロデュース作品『Blues on the Bayou』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞[5]2000年にはエリック・クラプトンとのアルバム『Riding With the King』を製作した。また、1998年に公開された映画『ブルース・ブラザース2000』では、クラプトンと共演している。

1987年ロックの殿堂入りを果たし[2]、授賞式にはスティングがプレゼンターとして出向いた。また1991年には、米国立芸術基金(NEA)の選定するNational Heritage Fellowship(日本の人間国宝に相当)にも選ばれている[6]

 

とにかくブルースをまったく知らない人でも名前ぐらいは聞いたことがあるだろう 有名といえばこbbれほど有名なブルースマンは、成功したといえばこれだけ成功したブルースメンはいないだろう

なにしろ「アトランタオリンピック」の閉会式からオバマ大統領の就任記念パーティーでホワイトハウスで演奏までしたブルースマンて・・・BB以外には考えられないよね

 

だからどちらかというと「マイナー」なものが好きな僕は若い頃は全然彼をいいとは思えなかった

あのまるでラスベガスの芸人が着るような豪華な衣装になんだか持って回ったようなクドい仕草

思わせぶりな派手なギタープレイと表情・・・「クサいよなあ」・・・イマイチ受け付けなかったのだ

ただ、あの当時の音楽評論家のトップにいた中村とうようが「あんなのはブルースじゃない」という意見には賛成できなかった 確かにわざとらしいんだが・・・ブルースじゃないとは言えないんじゃないかな・・・と

その抜けきらない疑問を晴らしてくれる一枚のアルバムにあるとき僕は出会った それが1965年にリーガル発表されてた「Live at the Regal」だった

当時、最も脂が乗りきっていてしかも黒人コミュニティーから絶大な人気を得ていた彼がシカゴにあった黒人専用会場「リーガル劇場」でやった演奏を収録したライブ盤だ

何が僕を動かしたか・・・それはオープニング、司会者が「Ladys and Gentleman ナントカカントカ・・」とハイテンションな声で呼びかけそして最後に「ビー~ビー~・キ~ング!」と叫ぶ

バンドが一斉に早めのシャッフルのイントロを演奏し始める BBが登場する すると客席からものすごい歓声が沸き起こる それもほとんどは女性の「キャ~~ッ!」という悲鳴のような声 そう、まるでビートルズのコンサートのような声が巻き上がったのだ

そして張りのある艶のある声でBBが歌いだす 「Everyday! E~veryday I have the Blues!」

もう客席は興奮のるつぼ・・・こんな状態が最後までずっと続く

そうだったんだ ソウルのキング ジェームス・ブラウンと同じく黒人大衆音楽のブルースの頂点に立つ男は間違いなく本物のそして最高のブルースマンだったのだ

次の曲を聴いてほしい このライブ盤に収録されている 「How Blue Can You Get」という曲だ

この曲は付き合ってた女に別れ話を切り出された男がうろたえて必死に思い留まらせようとするというような内容なんだが、その中にこんなやりとりが出てくる 後半ブレイクを入れながらトーキングスタイルで歌われてる部分だ

「お前には豪華なディナーをごちそうしただろう」「なによあんなの”スナック”じゃん」

「素晴らしい家を建ててやったじゃないか」「ただの掘っ立て小屋でしょ~」

などというやりとりがあって最後に男が

「お前には7人の子供を作ってあげたろう」と言うと女は「全~部返してやるわよ~!」と吐き捨てる

そのセリフの瞬間客席の女性ファンからもう「ギャ~~~ッ!!」という雄たけび、いや雌たけびが興る・・・これなんだよ これがブルースを支えてきた力なんだと思う

 

そしてもうひとつ、ぜひ話しておきたいことがある

それは今から10数年前のことだ

 

当時僕は吉祥寺で「からまつ亭」という蕎麦屋を営業していた 八ヶ岳からそば粉も水も持ってきimagesCALVWLG8て手打ちで、季節によっては山菜やキノコなど山の恵みを採ってきてメニューに出す そういうコンセプトで開いた店だった

ところがオープンして最初の2~3年ぐらいまではまったくお客が来なかった 毎月毎月赤字・・・

家族や親しい友人と離れて孤軍奮闘で毎日そば粉にまみれながら必死に頑張ったが一向に売り上げは良くならない・・・失敗だったか

僕は途方にくれた 毎日お客の居ない店の厨房にうずくまり暗いことばかり考えるようになっていた

店のすぐ近くを中央線が通っていた 当時、やたらと鉄道自殺が頻発していてほとんど毎日のように電車が止まったり遅れたりしていた

そのうち僕もなんとなく心の隅で「そうか・・・そうしたら楽になれるのか」などと考えるようにまでなっていた 希望の光がまったく見えなかった

 

そのときだ

たまたまその日店でBGMでBBの「Blues on the Bayou」というアルバムがかかっていた(僕の店は「ブルースが流れる蕎麦屋」だったのだ)

なんという曲だったのかは思い出せない スロウなバラードだったと思う

歌の歌詞の意味もわからなかった ただ、それを聴いてたらBBがこんなことを言ってるように思えたんだ

「あんたはバカさ どうしようもないバカさ でも・・・そんなあんただけど・・・生きてていいんだよ」

その言葉が心に浮かんだ瞬間・・・僕の中からブルースが吹き飛んだのだ

本当に「Blow My Blues Away」になったのだ

それから僕は思いなおしてまた一生懸命がんばった 3年を過ぎた頃から、少しずつだが店が軌道に乗りはじめた

 

そう、もしかすると今僕がこうやって生きてこんなことを書いていられるのはあの時のB B KINGのお陰かも・・・いやBLUESのお陰なのかも知れない

あの大震災の直後、心が折れそうになった僕を立ちなおらせたのは僕自身が歌うブルースだったビービー

 

みんな、どうかこの本等に素晴らしい音楽に少しでも近付いてもらえたら・・・それが僕の願いだ

今年でじつに89歳になるBBはだいぶ体力の衰えはあるがいまだに現役で演奏している

まだまだ元気でがんばってほしい

彼が亡くなったら・・・そのとき・・・アメリカの黒人のブルースの歴史が終わる

僕はそう思ってるのだ

 

 

 

リハもありの

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140502_1121今日はいいお天気 空もよく晴れておまけにちょっと暑い

 

まるで初夏みたいな昨日今日

 

お天気がいいけど僕らは昼間から地下に潜っていた

 

今日はお昼から仲田修子バンドのリハ 今月24日(土)のペンギンハウスライブのためだ

2ヶ月ぶりのリハ・・・今回は新曲はひとつと久しぶりにやる曲が3曲

仕上がりは・・・まあまあ・・・いいんじゃないかなあ しかし・・・疲れた~

140502_1459140502_1459


この季節になると

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心がちょっと落ち着かない

今の時期・・・僕の家のある八ヶ岳はちょうど「新緑」の時期を迎える

機構が暖かく穏やかでいい陽気 気分もいい

山の中には新緑に混じってヤマザクラの花も咲き、フレッシュなみどりの中にうっすら紅をさした風景は堪らない

それに加えて、この時期の八ヶ岳は「山菜」のトップシーズンを迎える

コゴミタラノメウド

タラノメ、ウド、コゴミ、フキ、ワラビ、ゼンマイ、ワサ

ビ・・・それこそ一斉に出てくる

 

 

特に僕が楽しみにしているのが「山菜の女王」と僕が名付けている コシアブラコシ

これってタラノメにちょっとにてるのだけど独特の風味があって天ぷらなんかにすると本当に美味いんだ~

 

 

今日うちのかみさんから家の庭のタラノキの様子を写メールで送ってもらった

お。お。 このぶんだとちょうど家に帰る頃にいい感じになるかも・・・

楽しみだあ~!140503_1123~01

 

 

また始めるよ

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しかし今朝の地震には驚いたねえ~ いきなりガタガタッ!と烈しく来たからこれは大きいぞ~と思ナマズい思わず起き上がっちゃったよ

東京23区で震度4以上だってから、久々の大きいやつだった

お陰でそのあとしばらく寝付けず・・・今日は睡眠不足

 

でも、表に出れば今日は曇りでちょっと涼しいけど、道ばたにはツツジやハナミズキの花が満開140505_1045140505_1045

 

いやあゴールデンウィークも今日を入れてあと2日だねえ

 

 

 

 

さて、長いことお休みしていた僕の連載「僕の吉祥寺話」を明日から久しぶりに再開しますよ

こい

再開第一話は”ゴールデンウィーク”にちなんだ僕の思い出から

お楽しみに よろしく~

 

 

僕の吉祥寺話 26

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いやあ、久しぶりだ~ 前回の25回目が2月24日だったからもう2ヶ月半経ってしまった

あの時はまだ寒かったのにこのところはなんだかもう初夏のよう・・・皆さんゴールデンウィークは楽しめましたか? 僕は最終日の6日に八ヶ岳に帰ってちょっと遅くて短いお休み

 

さて、久々の再開となる僕の吉祥寺話だが、いきなり話はなぜか大阪に飛ぶ

ゴールデンウィークのこの時期になるとどうしても思い出すことがある

それは1973年・・・だったはず 初めて行った「春一番コンサート」 場所は大阪の天王寺野外音はるいち楽堂だった

この「春一番コンサート」というのは大阪に居た音楽プロデューサー福岡風太らが企画主催した野外コンサートで1971年から79年まで続きそのあと1995年の阪神大震災をきっかけに復活、今でも毎年開かれている

とにかくこのイベントは僕には大きな色々な刺激を与えてくれた

もっと大袈裟にいえばカルチャーショックだった

 

その日、僕はギターを抱えて新大阪の駅に降りた 今回はシバのバックということでこのコンサートしんおうさかに参加するのだ

そこから地下鉄のたしか「御堂筋線」に乗り換え、「心斎橋」「難波」を経て目的の駅「動物園前」に降り立った 大阪の街に来るのは初めてだった

 

僕はギターを抱え薄暗い階段を昇り地上に出た はじめて見る大阪の街・・・するとちょっと眩暈のような気分に襲われた

 

そこには今まで僕がどこでも見たことのないような景色が広がっていたKONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

「おかしい、ボクは地下鉄に乗ったのにどこか外国に来ちゃったのか?」

その景色はまるでアジアのどこかみたいな・・・何ともいえない異様なテンションと緩さが混濁したような不思議なものだった

あとで知ったのだがその「動物園前」というのは大阪でももっともDeepな街「じゃんじゃん横丁」の目の前にある駅・・・東京でいえば浅つうてんかく草みたいな・・・いや、それを何倍にも濃縮させたような”いなたさ”が充満していた

眼の前にはあの噂で聞いてた「通天閣」がでーんとそびえている そこへ向かう狭い露地のような道の両側には飲食店や飲み屋や怪しげなゲームセンターのような店が軒を並べている

いかにも目つきの危ない「おっちゃん」が酔っ払ったような顔でどよ~ん・・・と立ち尽くしている

周り中が「そやうでっせ」「なに言うてんねん」「あほ!」「そら、あかん~」というようなテレビの吉本新喜劇のシーンみたいな会話で溢れている

 

その中をギターを必死に抱え僕は人をかき分けるように進んだ なんともいえないすえたような匂いのする街中・・・そこを抜け今度は右手に向かうテンオウジ

 

広いみどりの多い公園に出た そこを抜けて奥に進む 行く手に巨大なコンクリートの壁が現れる

 

それが「大阪天王寺野外音楽堂」・・・・そここそが春一番コンサートの会場だったのだヤオン

ここで過ごした五回のゴールデンウィーク、僕にとってそれは音楽をやっていく中で常に何か未体験の刺激を与えてくれる場所と日々になった

続く

 

 

僕の吉祥寺話 27

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天王寺野外音楽堂・・・コンクリート造りのステージのある建物をやはりコこうえんンクリート造りの円形の客席がそれを囲むように階段状に奥に広がっている

形としては日比谷の野音とほぼ同じだ

現在はもう取り壊されて跡形もないらしい

 

その入り口はこんな⇒感じだった入り口

大きな木の開き戸があってその横に小さな通用の入り口がある そこを入るとステージのすぐ横に出る

春一番コンサ-トのお客はそこでチケットを買って中に入り、ステージを横目で見ながら右手の段々の客席を奥のほうへ進む

 

客席からステージを眺めると

こんな⇒感じだったざせき

僕は最初に行ったときからずっと出演者側だったので観客とは別のステージの下手の楽屋口からバックステージに入った

ステージの裏は大きな建物で旧い木造の階段をあがると二階に大きな部屋があった オイルを滲み込ませた床は独特の匂いがしてその後毎年ここに来るたびにこの匂いをかぐと「ああ春一に来たんだなあ」という実感が沸いたヤやおん

そこが楽屋になっていて出演者やスタッフたちが大勢そこに居た

 

「やあ、しばらく」「ホンマやなあ、元気やった?」なんて挨拶があちこちで交わされる中忙しそうに動き回るスタッフ、出番までまだずいぶん時間があるので雑談したり居眠りしたりお酒飲んだり・・・出演者たちは自由にそこで過ごしていた

その雰囲気が僕はとても好きだった まだまだ新参者の僕にとってはほかの全員が先輩 でも、不思議と緊張はしなかった そこの空気がとても居心地がよかった

それはきっとこのイベントの主催者である福岡風太の人柄がそのままそこに表れていたからだと思う

 

そうそう、僕が始めてこの会場に入った時のこともはっきり覚えている

 

ステージではあるバンドが演奏していた ドラム、ベース、ギターの音に混じってピックアップを通したかなりエレクトリックな感じのバイオリンの音が鳴り響いていた その音を中心にするようにさらにペダルスティールまで加わった何だかレイジーな音で演奏しているバンド ボーカルがまたギターを弾きながらえらく気だるいようなゆるーい歌い方で歌っていた ちょっとアメリカの西海岸あたりのバンド、たとえば「It’s A Beautiful はちみつぱいDay」みたいなサウンド・・・そのバンドの名前は「はちみつぱい」

 

そう・・のちに「ムーンライダース」へと進化した伝説のバンドだった

 

当時、まだどちらかといえば「フォーク」の流れの中にどっぷり浸っていた僕には彼らの演奏はかなり刺激的だった

そのわずか2年ぐらい前まで「日本語でロックはできるのか」なんて今じゃ笑っちゃうようなテーマで真剣に討論が交わされていた日本の音楽シーンにこういったもうまったく日本語でそれもオリジナリティーをすごく持ったプログレッシブな連中がどんどん現れていることを思い知らされた

それからの数年・・・僕にとって春一番コンサートはちょっとした「カルチャー教室」のようになっていCCF20140505_00000

右写真はシバのCDアルバム「長距離電話」のライナーから 春一番コンサートでの演奏風景;右側、マイクスタンドで顔が隠れてるのが僕(まるで犯罪者みたいだね) 真ん中がシバ、左でハープを吹いてるのは若き日の「鳥井ガクだ) 多分74年だったと思う

続く

僕の吉祥寺話 28

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初めて行った73年から77年まで 僕は毎年春一番コンサートに参加した

ゴールデンウィークは大阪・・・そういうパターンが身についてしまった

最初は度肝を抜かれた天王寺のじゃんじゃん横丁も(大阪の人に訊いても「ああ、あそこはオオサ横丁カでも一番ヤバい場所やで」と言われた)慣れるとすごく居心地のいい場所になった

大阪に住んでいたシンガーソングライターの中塚正人くん(”風景”という名曲を作った人だ)に教えてもらって、じゃんじゃん横丁のすぐ近くにあった不思議な楽器屋に行ったことがある

 

そこは中古のギターばかりが置いてあるのだがなぜか表はたばこ屋でその奥が楽器売り場になっスタイルてた 置いてあるギターはそれこそ「ピンキリ」で、どこのものかも知れない怪しげなビザールギターからなぜかGIBSONの「STYLE-O」なんて超ビンテージな名器まで置いてあった⇒

そこのおやじさんがまた面白くて、僕らがギターを物色してるとやってきて「あんたらにはこんなギターは無理やで、あんたらはこういうベニヤの安物でええねん」と断言されてしまった(笑)

横丁の串揚げ屋もよく通った これがまた安くて旨いんだよなあ~

「二度漬け禁止」という有名になった張り紙のある店で焼酎呑みながら・・・これはクセにソースなる!

 

さて、春一番コンサートの話に戻ろう

翌年の1974年(もしかすると75年かも)・・・この年はちょっと波乱のイベントになった

コンサートが始まる前から会場の雰囲気がなんだかおかしい

客席でやたらとヤジる連中が何人かいて、それもかなり悪意を持った感じで烈しい言葉をステージの出演者に浴びせる 酔っ払ってステージに駆け上がろうとする・・・それはいつもの春一では当たり前のことで、そのため主催者のスタッフにセキさんというすごく体格のいい強面の人が居てもっぱらそういう連中をステージから叩き落す役目を担っていたが・・・その時は本当にこのコンサートをぶち壊すような勢いで何人かがステージへ突進していた

あとで聞いたこれはあくまでも噂なんだが、当時このコンサートに出たがってた関西の某有名ブルースユニットが主催者の福岡風太に「お前ら日本語のオリジナルもないから出さない」と断られ、それを恨んでの凶行だったとか・・・あくまでも噂だけどね(笑)

 

あともうひとつ大きな事件があった

その日、出演予定だったシンガーの遠藤賢司がなんとその前日、演奏先の九州でヤクザに絡まエンケンれ乱闘のあげくボコボコにされて重傷だと・・・今日は出演は無理かもしれないとの情報が入ったのだ なんだ、エンケン観られないのか・・・多くの人ががっかりした

ところが・・・そのエンケンがやってきた 身体のあちこちに包帯巻いてなんと松葉杖ついてステージに上がると「俺はこんなことぐらいで負けねえぞ~!」と叫んで歌いだした

さすがエンケン!カッコよかった そもそも僕がアコギでロックやろうと最初に思ったのは彼の演奏観たからだ 僕の最初の師匠なんだ

そうそう、実はこの年の春一番コンサートの模様が収められた動画がYOU TUBE にアップされてるんだ まずは⇒これ 風太や渡、ディランⅡ、林亭、お!ダッチャも映ってる 懐かしい映像だ ステージで大所帯のバンドバックに歌ってるのは後に「ナイアガラ音頭」で有名になった「布谷文夫」だ 「僕たちが~住むところ~・・・」と歌ってるのが「中塚正人」だ 「明日の朝の一番列キョウゾウ車で~」と歌うのは「いとうたかお」若い!お客のファッションもいかにも70年代だよねえ 会場の外のベンチでは眠ってるいかにも労務者風のおっさん・・・こんな感じだったのだよ エンディングロールは・・・今は亡き 「西岡恭蔵」だ

 

そして同じ時・・・これも今は亡き高田渡の元気な姿・・・⇒これ を最後に見ていただこう

春一番のあとの話はまた後日 さて、吉祥寺へ戻ろうか

 

 

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