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Channel: ジミー矢島の日記 | 高円寺ライブハウス ペンギンハウス
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山に入れば

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6,7日と八ヶ岳の自宅へ戻ってきた

140508_0956ちょうどゴールデンウィークの最終日 最初高速バスで帰ろうと思ってたら当日券はすべて売り切れ ちょっと急ぐので仕方なくjr中央線の特急を久し振りに利用 きっと甲府までは立ちだろうな・・・と思ったら以外や自由席はけっこう空いていた あのバスの満席は何だったのだろう

 

その日は家に着いたらもう夜 酒飲んでその晩は眠って、翌朝山に入った140507_0948

 

家の辺りの山菜のピークはだいたいGW直前か真ん中あたり もう遅いかなあ・・・と思ったら

以外や! 僕の一番欲しかった「タラの芽」や「コシアブラ」がちょうどいい時期!140507_0956

やったね、嬉しいね!山の住人は毎年これを楽しみに厳しい冬をやり過ごすんだよね

 

僕は今は山の住民じゃなくなったけど「習い性」ということで・・・もうどこら辺に行けば今何が出てるか・・・大体わかるのだ

 

この日はスポットを3箇所選んで移動しながら

結局、タラの芽とコシアブラ、ワラビにコゴミを収穫 140507_1338

 

久々の山菜の天ぷら・・・それに蕎麦・・・とくれば、もうこれは日本酒しかないよね~

地元の美味しい地酒「谷桜」・・・そういえば山間にも桜が(ヤマザクラ)満開だったなあ


僕の吉祥寺話 29

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さて、吉祥寺・・・70年代の吉祥寺の街ってどんなだったんだろう001

まず駅前だが今と違って個人経営の店がまだまだ多かった 最近吉祥寺に行くと駅近くは大型店舗とフランチャイズの店ばかりになって・・・これは吉祥寺に限ったことじゃなくて今は全国何処に言っても「マック」「セブンイレブン」「つたや」が大抵はあるしその構えも似通ってるので、なんだか同じような街の風景になってしまっているね

僕がまだ20代のころはまだまだアクの強い街でもあった吉祥寺・・・たとえば中央線に沿って走ってる「平和通り」にはバラ売りの卵屋さんがあった 今みたいにプラスティックや厚紙のパックに6とか10コ入ってるのじゃなくて1コ1コ量り売りだった 店内に入ると平らな台にモミガラが敷いてありその上に「名古屋コーチン」とか「チャボ」とか各種のタマゴが整然と並べられていた その売り場の奥にいつも「おかみさん」らしい年配の女性が割烹着を着て座っていたが・・・その人の顔が本当にニワトリに似ていたのでちょっと不気味ではあった

「サンロード」に続いて「ダイヤ街」もアーケードになっていてそこにあったレコード屋がいつの間にか駅の中の「ロンロン」に移転していたっけおざさ

和菓子の「小ざさ」の行列はあの当時から有名だってけどそのちょっと先の「肉屋佐藤」のメンチカツの行列はあの頃は無かったなあ・・・

アーケードにはよく「サンドイッチマン」が居た 今ではもう見られなくなった風景だね

ところで、「ぐゎらん堂」のあった場所って今ではどうなってるんだろう・・・

実はちょっと前に確かめに行ってみたのだ 外観などすっかり変わってるので確信はないのだけ010ど、ビル全体の大きさからみて多分これ⇒だと思う

昔はこの右側に3階までまっすぐ続く階段があったのだ 一階は美容院、二階は怪しげなマスターがやってる飲み屋 その上3階が「ぐゎらん堂」だった

では吉祥寺話の後半・・・いよいよ幕開きです

続く

 

 

僕の吉祥寺話 30

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さて、あらためて「ぐゎらん堂」ってどんな店だったのだろうマッチ

僕はここらへんについての資料や記憶がちゃんとしてないので、ここは元オーナーの村瀬春樹さんのネットエッセイ「道具の真相」から抜粋して紹介させてもらう

僕はたいてい夜の8時過ぎくらいにここにはやってきていた

ぐゎらん堂は昼間も営業していたのだが、昼間の主役は主に高校生・・・まあ僕の妹のMEGもかつテンナイてはそこに「君臨」していたのだが・・・僕は彼らとの接触はほとんどなかった

僕が「夜」それも遅くを選んだのはやはりミュージシャンたちの仲間 シバ、高田渡、友部正人、いgw-009-shivaトモベとうたかお、中川五郎、中川イサト、アーリータイムスのメンバーたち・・・などに会いにいくためだった

それこそ深夜・・・下手すると明け方まで・・・春樹さんたちお店のスタッフたちには大迷惑だったに違いないが、僕らはとことん甘えさせてもらっていた

深夜になって酒の酔いが回ってくると誰ともなしにゴソゴソと楽器を取り出し始める あっちからもこっちからも 楽器を持ってないやつは店にあるスプーンやビールの空き瓶を持ち出す

すでに「武蔵野たんぽぽ団」は消滅していたが、そのあともそういうものに繋がってゆくような音楽ヘイテンゴ的実験が夜な夜な繰り返されていた・・・と言えば聞こえがいいが、実際は酔ってダラダラと音を垂れ流していた・・・というのが真相かな(笑)

でも、そこから得たものも多かった たとえば延々と続くEのブルース アルコールは入ってるし時間はもう明け方近くだし(僕はその当時は辛うじて堅気の学生やってたので昼型の生活だった)イイカゲン眠くなってくる

すると延々とブルースのベースラン「ザッザ・ザッザ」というのを弾きながらいつしか眠ってるのだ

眠ってるのだが手はリズムを刻み続けているのだ

現在、僕がリズムギターについてある程度自信を持って演奏ができているのは実はこの時期に経験した「スパルタ特訓」のお陰なのだ

そんなふうに日々を過ごしながらたまに人前で歌ったりギターを弾いたりする

僕の修行時代が進行していた

続く

 

僕の吉祥寺話 31

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ぐゎらん堂では色々なことが行われていた 漫画の原画展・・・これはやはり雑誌「ガgw-014-softball at mitakaロ」の編集長長井さんとのコネクションが強かったからだと思う・・・SPレコード鑑賞会とか、たまには野外で野球大会まで開催されていたのだ(僕がどこにいるかわかるかな)

 

 

でも、やはり僕が一番好きだったのは毎週水曜日に開かれていた「水曜コンサート」だった

これは水曜日のなんと夕方の5時スタートという今では考えられないような時間帯で行われていたのだが、ここにはもう有名なミュージシャンたちから僕のようなまったく無名の駆け出しシンガーまで出演させてもらっていた

このライブはなかなか盛況で春樹さんも不思議思っていたというが、どこで情報を嗅ぎつけるのかかならず多くの聴き手がやってきていたことだ

あの当時から抜きん出て人気のあった友部正人の時なんか入りきれない人が出るほどトモベ

驚くことに当時下手くそでまったく無名だった僕でさえ常に10数人ぐらいの聴き手が来てくれていたことだ

まだ「ライブハウス」なんて言葉もなかった時代・・・今にして思えば僕らは本当に恵まれていたと思う そして、来てくれた人たちからの色々な感想や批評・・・時には厳しい言葉もあったが、それが本当に自分を鍛えてゆくのに大きなありがたいことだった

 

あの当時、僕の演奏を聴きに来てくれていた皆さん・・・今はどうしておられるのかな・・・本当に感謝しています

 

そういえば、高田渡が亡くなったときに武蔵小金井の公会堂で開かれた追悼イベントに僕も参加シンジュクしてシバの「バイバイブルース」でギターをつけたのだが、そのときシバがMCで僕を「・・・ジミー矢島!」と紹介してくれたとき会場の客席から思いのほか多くの皆さんから拍手をいただき「ああ、覚えててくれたんだな~」ととても嬉しくなった

この演奏はシバのアルバム「新宿発・謎の列車」に収録されてるので、もし興味を持たれたらチェックしてみてね

ヨジョウハン

さて、ぐゎらん堂の水曜コンサートには色々なミュージシャンが登場していたが、たとえば「世情半」なんていかにもその時代らしい名前で出ていた高校生のユニット、そこのメンバーだった小林くんは当時ブルーグラスバンジョーに熱中していて、そのうちなぜか4弦のテナーバンジョーにシフトチェンジして、いつのまにかジャズギターを弾き、その中でもジャンゴ・ラインハルトのスタイルになってゆき、その後はウクレレ奏者にもなったが、高田渡のユニット「ヒルトップストリングバンド」の一員でもあった彼は今ではこう呼ばれているらしい

 

「キヨシ・コバヤシ」キヨシコ

 

知ってるかな? 他にも色々なミュージシャンたちがその産声をあげていたのだよね・・・

続く

 

 

意外な理由

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今日、ピアノの調律師が入った001

2ヶ月おきにお願いしているのだが、いつも丁寧な調律をしてくださる人で人柄も温厚な方だ

作業の前にピアノやギターの音色や材料の話しなどで盛り上がったのだが、その話の中で面白い・・というより意外な話をきいた

今はそうではないらしいが、昔社会人野球のチームの中でダントツに強いところがあった

それが某有名なピアノメーカーのチーム「Y」だったそうで、なぜ強かったか? それにはわけがあった

なんとそこの会社に所属していた専属の調律師の中に学生時代野球をやっていたそれもかなり強豪のチームにいたものが多かったということなのだ

バット

なぜ元野球選手が調律師に?・・・その理由がまた意外なものだった

 

つまり野球のバットをチューニングハンマーに持ち替えた・・・ということらしい

確かに握った感じは少し近い・・・かあ?ハンマー

 

でも、実際にそういう人が多かったらしく、だから音楽にかんする知識はほぼゼロ 「ショパン」と「シューマン」の区別も出来ないような人が居たらしい 驚きだね

 

今はさすがにそういうことはないようだが・・・それにしてもねえ(笑)

 

 

僕の吉祥寺話 32

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当時のぐゎらん堂にはもちろんすでに「プロ」として活動していて知名度のあるミュージシャンが多く出入りしていたが、僕を含めてまだ駆け出しあるいはこれから出て行こうとする若いミュージシャンたちも多く顔を顔を出していた 本当に色々な人物がいた

たとえばまだ当時はアコギで弾き語りやったり友部正人のバックでベース弾いてたりした青年・・・ミチロウのちに「スターリン」というバンドを結成して皆の知るところになった「遠藤ミチロウ」もいた

 

 

「アボさん」という人がいた やはりシンガーソングライターを目指していたのか、弾き語りでたまに歌ったりしていたが、彼はどちらかというとほかの部分で注目されていた

それは当時ぐゎらんチュウソツに置いてあった「落書き帳」という書き込み自由な大学ノートがあって、色々gazo_s-02な人が自分の勝手な意見とか書き込んでいたが、その中で彼はずうっと短い4コマのような漫画を描いていた その登場人物はほとんどが春樹さんやスタッフのチュウソツなどがモデルになっていたのだがすごく似ていて話も面白かった

その後、彼は一旦はサラリーマンになりその後そのキャラクターをそのまま使った「蘭丸ロック」という漫画でプロデビューするのだが、今いしかわではテレビのコメンテイターとしてもよく登場する彼の名は「いしかわじゅん」という

 

 

 

それから当時僕とは本当に仲が良くって一緒にあちこちへライブしに行ったり飲んだりしていた男がいた 左利きでギターを弾いてちょっとパンキッgw-005-jimmy in gwシュなオリジナルの曲を歌ってた彼はその後ロック評論家となり日本のインディーズシーンにかなり影響力を持つようになる(写真右の男、左は僕だ)

 

当時僕は親しみを込めて彼を「ガク」と呼び捨てにしてたが、それが今は「SOUL KITCHEN」というライブハウスのオーナーもやっている「鳥井賀句」だimages

 

 

あと、ある日二人の若者がぐゎらん堂にやってきた 自主制作したというLP盤を抱えたその2人は両人ともメガネをかけてなんだかやけにインテリっぽくまた育ちの良さそうな・・・当時のぐゎらん堂にはあまり居ないようなタイプの(なにしろ野武士みたいな連中ばかりだったから)青年たちだった

その2人とは・・・

続く

僕の吉祥寺話 33

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ある日ぐゎらん堂にやってきた2人の青年 彼らは「林亭」という名で活動しているアコースティックユニットだった 出来たばかりの自主制作LPレコード 「夜だから」というアルバムを携えて

 

僕が「インテリっぽい」っと思ったのも当然で二人とも現役の大学生だった夜だから

彼らのアルバムをさっそく皆で聴いてみた アコギとマンドリン、バンジョーにバイオリンを使って演奏されてるそのアルバムは当時僕が好きだった「ニュー・ロストシティー・ランブラーズ」や「ドク・ワトソン」に近い感じ オリジナルの日本語の歌ばかりだったがなかなか素晴らしい出来上がり

これはとくに高田渡には一番受けたようで、すぐに彼らとの交流が始まった

彼らのひとりは佐久間順平 もうひとりは大江田真という名前だったハヤシ

林亭すぐにぐゎらん堂のレギュラー出演者になった

その後それぞれ別の道に進み活動を停止して最近又再開したかれらだが、佐久間くんはご存知高田渡や小林清らと「ヒルトップストリングバンド」を結成 後に独立後はバイオリン、マンドリン、ギターなどのマルチプレイヤーとして「南こうせつ」「小室等」など多くのシンガーのバックで現在も活躍中、大江田くんはレコードショップの経営をしている

 

その「林亭」というユニット名だが、元々はもうひとりメンバーがいた そのメンバーはこのユニットの曲をほとんど書いていた男で、 林ヒロシ と名乗っていたハヤシヒロシ

やがて林亭に誘われるようにぐゎらん堂にやってきた彼はやはりここでレギュラーシンガーとして活躍するようになる ソングライターとして出色な才能を発揮していた彼を特に高田渡はすっかり気に入って、一時はまるで師弟のように一緒にライブツアーとかしていた(右写真、左が林ヒロシ、真ん中はなぎらけんいち、右がこの写真をアップした古川豪)

やがて遅すぎるくらいだった彼のアルバムが製作発表された 「とりわけ10月の風が」というタイトかぜルのそのアルバムには林亭の二人はもちろん当時ぐゎらん堂に関っていた何人かのミュージシャンが参加した

 

そんな活動を積極的にしていた彼だったが、ある女性との結婚をきっかけにあっさりこの音楽の世界から足を洗ってしまった そのまま普通の堅気の世界で生きてゆく・・・そう思ってた周りはある日意外なところで彼と再会することになる

 

時代はだいぶ下った2005年 カンヌ映画祭に出品されて話題を呼んだ映画「バッシング」というバッシング映画をどこかできいたことあるかと思う 当時大騒ぎを引き起こしたイラクでの日本人人質事件を題材にした映画

その監督 「小林政広」・・・それが林ヒロシの本名だ

 

そして、ぐゎらん堂の皆・・・僕にも大きな影響を与えた人物が登場した その人は・・・

続く

 

 

僕の吉祥寺話 34

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その人物をはじめてぐゎらん堂に連れてきたのは多分高田渡だったと思う

丸顔で目のくりっとしてなんだかやけに童顔でニコニコしていたその人は「ガンさん」という名前がんさんだった 本名は「佐藤博」というまたどこにでもありそうな名前で、実際当時「ハックルバック」というバンドで鈴木茂(元はっぴいえんどのギタリスト これもよくある名前だ)と一緒にやっていたキーボードプレイヤーがまったく同じ名前だった

そういうこともあって僕らは自然に・・・今でも・・・彼をガンさんと呼んでいた

 

さて、そのガンさんがなぜやってきたか・・・それはその何日後かに彼の自宅に何人ものミュージシャンたちが呼ばれて開かれたミーティングで明らかになった

 

それはガンさんが自ら企画しプロデュースしている「JAM」というイベントライブに出演してほしい・・・そういう話だった

この「JAM」というイベントはガンさんも所属していた劇団・・・そうそう言い忘れていたがガンさんは俳優だったのだ・・・「自由劇場」(主催;串田和美)の本拠地の六本木自由劇場で定期的に開かれていたのだ

もちろん喜んで僕らはこのお誘いを受けた

 

それから数ヵ月後、僕はギターを抱えて「JAM」に出演するため六本木にやってきた 東京生まれにもかかわらず僕が六本木を訪れるのは初めて 中央線の吉祥寺なんて当時はまったく垢抜けない街だったので、このいかにも「都会」といった街の佇まいにちょっと戸惑いながら・・・

そして自由劇場への階段を降りる するとそこは小さいながらもしっかりとした劇場で、ステージがあって階段状の客席 その後にはディレクターブースや照明ブースもある・・・すげえ! そう思った

僕は何回もこのイベントに参加させてもらったが、有り難いことに誰かのバックというのではなくソロシンガーの「ジミー矢島」・・・当時は「矢島たかし」という名前で出ていたが・・・として演奏させてもらったことで、このことには今でもガンさんに感謝している

 

このイベントには普通のライブとはちょっと違うある特色があった それは出演するのがミュージシャンだけではなく役者さん・・・主に自由劇場の団員だが・・・も出演していたことだ

ただし演劇をやるのではない 彼らもミュージシャンとして演奏をしていた 当時かなり活躍していアサヒナヨシダた俳優の「朝比奈尚行」とか個性的な演技で知られていた女優「吉田日出子」なども出演していたのだが、特に吉田日出子は当時その自由劇場のメンバーが組んでいた「電気亀団」というディキシージャズスタイルのバンドと一緒に旧いジャズなんかを歌っていた

 

この現場を僕も何度も見ていたが、最初のうちは全員ろくに楽器も弾けず「下手だなあ~」と正直思ったが、会を重ねるうちに全員どんどん上手くなってゆくのには驚き、役者さんたちの「向上心」と努力にはこちらが教えられるようなことが多かった

このバンドがのちにある「ブーム」になっていったのは多分皆さんもご存知だろう

バンスキング

その後、このバンドの演奏に吉田日出子が歌手の役で演じた芝居・・・

のちに映画化までされた「上海バンスキング」・・・その産声をあげた直後のプロセスを僕らは目撃していたのだ

続く

 

 


どうでしょうか

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ペンギンハウスの出演者に 西山諒 と マメルダ という人がいる

西山くんはアコギの弾き語り、マメルダはアコーディオンの弾き語りで二人とも若いとても素晴らしい演奏者だ

お互いここではないが対バンもしたことがあり知り合いでもある

その両者の顔が「似ている」という噂が最近クローズアップされてきている

実は僕は前からそう思ってたのだが、最近ほかの人たちもそういってるので僕の思い込みではないと思うのだよね とくに演奏しているときの表情が・・・

言われた当人のマメルダは「そうかなあ・・・」とちょっと気にしてるので、皆さんの感想を知りたい

下にそれぞれの演奏時の写真をアップするので比べてみて・・・どうかな?
015025

 

 

 

ちなみにこの二人・・・来月6月3日(火)にここで対バンするので、確かめたい人はゼヒ生で観に来てね!

 

 

僕の吉祥寺話 35

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「JAM」は年に2~3回ぐらいのペースで開催されてたと思うが僕はほぼ毎回参加させてもらっジャムていた

このイベントは楽しかった 劇場の施設も音響もよかったし、ちゃんとしたステージがあって演劇のように舞台監督とか進行のスタッフとかあってすごくしっかりとした体制と段取りで行われていて「さすがは演劇の世界だなあ」・・・と思ったものだ

あと、ガンさんをはじめお芝居をしている人たちとの音楽での触れ合いというのも色々刺激や勉強になった

それに、役者ではなくミュージシャンとして活動している今まで知らなかったミュージシャンとの出会いもあった 守川妙子という女性シンガーソングライターがいた・・・あと一人男性のシンガー

大津彰」・・・このシンガーソングライターは「つかこうへい」の劇団の専属音楽家として活躍していたおおつ人だが、それまで僕のまわりにいた吉祥寺の音楽仲間とはまったく違ったルーツを持っていて、とてもセンシブで叙情的な楽曲を書いていた

髭面に似合わず繊細でちょっと内気そうな彼だったが僕はこの人とは妙に気が合って仲良くさせてもらってた

そうそう、こんな話があった JAMのイベントが終了して何年か後にある場所で偶然彼と再会した そのときこんなことを話してくれた

「矢島君、知ってた?あの頃あなたがステージで歌ってるとそれを楽屋で聴いてた吉田日出子が”ヒデコあのこ可愛いわね”って言ってたんだよ」・・・と

そういえばあの頃僕もオールドジャズが好きで「月光値千金」なんかを歌ってたけど・・・

当時は僕もかなり人見知りで、ましてや大女優の吉田日出子と話をするなんて恐れ多くてとても考えられなかったが・・・そういえば「岡林信康」とかけっこう複数の年下のミュージシャンと浮名を流していた彼女だったんで、もしかしたら下手すれば僕も「食われて」たかも・・・それはないか(笑)

 

その後、ソングライターとして「矢沢栄吉」「高橋真理子」などメジャ-な歌手たちに曲を提供し活躍していた彼おっちゃんだったが1997年 わずか47歳の若さで亡くなってしまった 本当に残念な話だ

今でもあの「おっちゃん」(大津彰のニックネーム)のちょっとはにかんだような笑顔は忘れない

 

そしてもうひとり・・・ある日このステージにその後の僕や吉祥寺の音楽シーンにまた大きなかかわりを持つ男が現れるのだ

続く

 

 

僕の吉祥寺話 36

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さて、その男とは・・・とその前にこのJAMに出演していた俳優の「朝比奈尚行」についてもうちょっと詳しく説時々自動明しておかなければならない

現在は「あさひ7おゆき」という芸名で活動しているが、役者だけでなく演出家としても、また最近では「時々自動」という劇団兼バンドで音楽活動も活発にやっておられる

JAMではガンさんと並んで中心的な人でもちろん毎回このイベントには出演していた

その彼がある日「つい最近アメリカから帰ってきた僕の弟です」と紹介し、一人の青年がステージに登場した

 

かなり年代もののGIBSONのアコギを抱え、指にはスライトバーをつけていきなりボトルネック奏法で弾きだした曲を聴いてみんなぶっ飛んだ

「う、上手い!」 そのギターは本当に本場のブルースマン・・・たとえば「フレッド・マクダウェル」のようなサウンドだったのだが、その音に乗せてすごくブルージーなオリジナル曲を歌った

勿論そこに居た誰も彼のことは知らなかった 衝撃的に登場したシンガー・・・

それが 朝比奈逸人 だったのだ

とにかくギターは本場仕込みというかまるでアメリカの南部から来たような味と技があった ブルースハープもムチャクチャ上手かった

独特の鼻にかかったような声で歌われる彼のオリジナルがまた素晴らしかった

この登場をきっかけに当然、朝比奈逸人はすぐにぐゎらん堂にとってもなくてはならない存在になったのだが、僕にとって彼の登場は本当に嬉しかった

彼のブルースについての知識や腕はそれまで僕が吉祥寺界隈で出会ったどのミュージシャンとは比べ物にならないくらい深かった シバもブルースについてはもちろん僕の”師匠”だったが、彼がどちらかというと「ライトニン・ホプキンス」ばかりに偏ってたのに対して「ヤスト」・・・もう親しくなってからは皆が彼をこう呼んでいた・・・は「ブラインド・ブレイク」とか「ウィリー・マクテル」とか幅広いカントリーブルースマンをフォローしていて話もよく合ったし(ぐゎらん堂に関っていたほかのミュージシャンたちは実はあまり深くブルースには踏み込んではいなかった)、僕は彼と一緒にライブやセッションをたびたびやった

 

ところで、ヤストはソングライターとしても抜きん出た才能を持っていた

「おさと」「なまけもの」「ライウィスキー」など名曲が多いのだが、特に彼の「トンネルの唄」はその後高田渡がずうっと自分の持ち歌にして歌ってたので聴いたことある人も多いと思う⇒トンネルの唄

 

ちなみにペンギンハウスに出演している「寺田町」も最近は歌ってるので生で聴きたい人はぜひペンギンハウスへ! トンネルの唄の寺田町バージョンも素晴らしいよ

 

ところで・・・それだけ実力もありそれからの大活躍も期待されてたヤストだったのだが、大ヤスト学を(東京芸術大学の美学生だった)卒業し大阪芸大の講師になったのをきっかけにこの音楽の世界からまったく姿を消してしまった

 

その後、彼の美術方面での活躍の情報などもあったのだが⇒
音楽についてはどうもまったく足を洗ってしまったようで現在もどこでどうしているのかさえなかなか情報が掴めない

 

 

 

 

彼の演奏の記録も、参加していたJAMの解散コンサートのライジャムブ盤⇒と

75~76の春一番のライブ盤「ライ・ウィスキー」「もう終りさ」の2曲が残されているだけなのだ

 

 

彼の演奏している画像さえネットで探してもほとんどなく、辛うじて見つけたのがこれ 京都在住のフォークシンガー古川豪のHPからだヤスけど、古川さんの陰にちょこっと顔が見えてるのが彼だ

 

まあ「消えてしまった」という意味では僕も前に中川五郎に「今ではお蕎麦屋さんになった」と書かれてるのでヤストと同格らしいが(笑)、ヤストの場合は本当に消えてしまったのだ

 

つくづく勿体無いし、またゼヒ彼のあの暖かみのある素晴らしい歌が聴きたいものだ

 

ヤスト・・・どこかでこれを読んだらぜひ連絡下さい・・・まるで「家出人捜索」みたいだけど・・・

また一緒に酒でも飲みながらセッションしたいね!

続く

僕の吉祥寺話 40

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さて、キャンディーメンの「御披露目」となった場所…それは当時吉祥寺にあった映画館「ムサシノ映画館」で開かれた「武蔵野最初のコンサート」と言うイベントで、 映画館の終わった後の「レイトショウ」という形で行われた

この「ムサシノ」という映画館は後に老朽化のため建て直されて「バウスシアター」となっている  主バウス催したのは吉祥寺で事業をしていたGというある女性だった 確か4~5日に渡って開かれて、武蔵野で活動していたミュージシャンだけでなく当時人気のあった関西のバンド「ソーバッドレビュー」(今は亡き砂川正和がボーカル、山岸潤史と石田長生という2人のスーパーギタリストがいた)とか「センチメンタル シティーロマンス」など多くのバンドやミュージシャンが参加していた
そこに我ら「キャンディーメン」は初日に登場と言うことになっていた

 

もうこの日を迎えるための準備や練習は万全・・・なはず あとはいかにインパクトを与えるか・・・僕らは一計を図った
それまで吉祥寺のミュージシャンと言えばスタイルは「ジーンズにワークシャツ」などが定番だった 実際普段の僕らはそういう格好だったが,そのコンサートに出た時僕らは全員スーツにネクタイという衣装で出たのだ

 

紹介されて僕ら3人がステージに登場したとき客席から「お~っ!」というどよめきのような声が上ヨルノムコウがったのを覚えている 僕ら、特にシバがスーツ姿で登場するなどとは誰も想像できなかったに違いない よし”掴み”はオーケイ あとは演奏のほうだ こちらは苦節約一年、食うものも食わず酒飲んでがんばったという自負がある これでウケなかったら田舎に帰る(僕の田舎はここだったけど)しかない!

演奏が始まった 客席のウケがすごくいい!

「ザ・キャンディーマン」のレパートリーはシバと僕の曲が大体7:3ぐらいの割合だった 僕もその頃はかなり持ち歌も増えていて、今でもたまにやってる「回転ドア」・・・これは最近では仲田修子がカバーしてくれてるが・・・などもその中に入っていた

実はジャグバンドスタイルを取っていたが僕らのサウンドはどちらかというとロックぽかったと思う

その頃、シバはジミ・ヘンドリックスに影響を受けはじめていたし僕は戦後のシカゴやアーバンブルースを盛んに聴いていた

だからバンドのスタイルとしてはウォッシュタブベースやウォッシュボードを使いながらたとえばビークオリーメントルズの前身だった「クオリーメン」が多分そうだったようにかなりロッキンしていたと思う

たとえば僕の「回転ドア」はその当時は早いテンポの8ビートで演奏されシバが切れ味のいいマンドリンのリードを入れていた

シバののちに定番レパートリーとなった「埃風」・・・この曲の元は多分ライ・クーダーだと思う ちなみにたこボーの曲「陽のあたるどこか」にメロディーはよく似ている この曲では僕はかなり練ったギターフレーズを考え出していた それはブルースでももちろんライ・クーダーのフレーズでもなく・・・今それを再現しろと言われても不可能なくらい妙なスケールを使って・・・今考えれば「プログレ」みたいなものだったかも知れない

そして、僕らの演奏が終盤に差し掛かったとき・・・突然一人の女性が大きな花束を抱えてにこにこ笑ながらステージに駆け寄ってきた それはこのイベントの主催者のGさんだった

あとで彼女から聞いた話 「本当に貴方たちの演奏素晴らしかった!このイベントに出たどの出演者より良かった それであの時急に”こうしてちゃいけないと”思って急いで花束を買いに行ってもらったのよ」

この「武蔵野最初のコンサート」が開かれたのは結局この年1回だけだったが、キャンディーマンの存在を知らしめるには充分すぎるくらいのインパクトを与えることができたのだ そして・・・

続く

 

 

僕の吉祥寺話 41

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さて、話は変わる

あのJAMというイベントをきっかけに出会った新しい音楽仲間 佐藤ガンさんと朝比奈ヤスト

その後僕ら吉祥寺の音楽連中の仲間入りしたのはいうまでもない

そして、僕はガンさんに頼まれて彼のバックをやったりガンさんが担当していたNHKの教育番組ガンサンの中の少年ドラマ「僕が僕であること」の劇中挿入曲の演奏なども頼まれてやったりとか、色々な付き合いが始まった

ヤストとも同じ「ブルース同好会」としてよくセッションや一緒に演奏することも増えてきた 当時彼は僕をギターの「先生」などと呼んでいた(笑)

ガンさんにはいいオリジナル曲がいっぱいあった JAMの頃からやっていた「時間がありすぎて」とか「あんた」とか「なおちゃん」とか「かま猫のブルース」とか・・・

そしてそんなガンさんにレコーディングの話が飛び込んできた その話を持ってきたのは当時発index足したばかりのキングレコードの中のレーベル「ベルウッド」だった

そして、ガンさんから「召集」がかかった あれは76年の夏だったと思う・・・

ガンさんを囲む当時の吉祥寺選りすぐりの・・・そしてもっとメジャーなプレイヤーたちも参加してレコーディングの段取りが進められていた

そのタイトルは「青空」となっていた

それこそ「吉祥寺オールスターズ」と言ってもいいくらいのメンバー・・・名前をあげると

佐藤博(vo/ag)、村瀬雅巳(b)、村上律(steel g)、中川イサト(ag)、佐久間順平(mandolin)、松田幸一(harp)、朝比奈ヤスト(harp,dobro)、青木とも子(vo)そして僕矢島たかし(ag/banjo)
イサトリツアリチャンアオキ

 

 

 

 

 

 

 

そしてメジャ-というか当時のティンパンアレイ系から 村松邦男(eg)、吉田健(b)、河合徹三(b)、斉藤ノブ(per)、当時来日していたアメリカの黒人プレイヤーJimmy Hopps(ds)さらには細野晴臣(ag)なんてすごい人たちが・・・
ムラマツヨシダケンサイトウノブ

 

 

 

 

 

 

あともう一人・・・まだピアノが決まってなかった ガンさんがみんなに尋ねた 「誰かいいピアニスト知らない?」

するとヤストがこう言った

「僕の行ってる芸大の音楽科にすごいピアノ弾く友人がいるけど紹介しようか」

それはいい・・・ということで後日 その”友人”がヤストに連れられてやってきた

で、その男とは・・・続く

 

僕の吉祥寺話 42

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ガンさんの30歳を過ぎてのキングベルウッドからのファーストアルバムのタイトルは「青空」と決まっていたアオゾラ

 

そして、1976年の7月26日 確か池袋の近くにあったキングレコードのスタジオで録音が始まった 並み居るメンバーが揃う・・・それぞれの曲ごとにメンバーのうちからアレンジャーが決められ、その人を中心にレコーディング作業が進められた

僕は当然「吉祥寺組」だったので、周りは村瀬雅巳(b)佐久間順平(mandlin)中川イサト(ag)松田アリちゃん幸一(harp)村上律(steel g)ヤスト(harp/ag)など親しい顔ぶればかりで、スタジオの雰囲気も和やかだった

そこへヤストに連れられて一人の青年がやってきた 痩せ型で眼がぎょろっとして髭の濃いちょっと神経質そうなその若いピアニスト・・・名前はサカモトといった

そしてレコーディングの作業が始まった それぞれの持ち場に着くプレイヤーたちスタジオナカ

譜面が配られ、パートの説明がアレンジ担当者から全員に伝えられる

マイクチェックをし、何回かのテストをし,まずベース、ドラム、ピアノ、ギターなどのリズムセクションの録音が始まる

 

こうした作業が一日中繰り返される 録音した音源をプレイヤーたちはコンソールルームへ行くかあるいはその場でヘッドホンで聴きチェックをする

「どうだ?」・・・・・・・・・・・・

誰かが応えるまでの無言のスタジオはイヤになるほど静かだ 「う~ん、大体いいんだけスタジオブースど・・・もう1回やろうか」  ふうっとため息をつきながら演奏者たちは再びスタジオに入り楽器を手にする

「レコーディング作業」というのはじつに味気なく地味でシビアで根気の要る作業だ

全員がひとつの「納得」というポイントに到達するか「もうこれ以上はムリ」というところまで追い詰められるか・・・それまでこの作業は延々と終わることがないような気分になる

 

さて、新しくメンバーとなったサカモトくん・・・そのピアノは本当にすごい上手さ、それは鬼気迫るピアノぐらいのテクニックと音楽性の懐の深さをまわりの誰もが認めるぐらいのインパクトがあった

僕も心の奥でこう囁いていた「この男・・・天才だわあ」

その才能はピアノだけでなく、曲のアレンジでさらに凄さを皆に見せ付けることになる

「3月31日」というガンさんのオリジナル・・・この曲でサカモトくんが見せ付けたアレンジにはみんなびっくりしたのだ 元はよくあるタイプのスロウなバラード曲だったのだが、彼がほとんど独りで演奏した数多くの楽器それはオルガン、カリンバ、それに見たこともないような民族音楽の打楽器や小物を使ったこの曲はまるで「現代音楽」のような不思議なテイストを与えられた

「すごいなあ・・・」 周りの誰もが彼の才能に目を奪われたダレモ

 

その腕前を周りが放っておくはずがなかった すぐに友部正人が彼に声をかけ、なんとガンさんのアルバムが出来る前にこのサカモトくんをピアノに迎えた友部のニューアルバム「誰もぼくの絵を描けないだろう」が発表された

 

そして、もうひとつ大事なことがあった このレコーディングにはあの細野晴臣も参加していホソノたのだ

当然サカモトくんはこのとき一緒にレコーディング作業をしていたわけで・・・

そう、ここまで見てくれた皆さんはもうおわかりだろうし、その後彼がどうなったのかも僕より知ってるでしょう

彗星のように現れた天才ピアニスト・・・サカモトくんのフルネイムは坂本龍一 というサカモト

続く

久しぶりに

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吉祥寺の井之頭公園に行ってみた

前回行ったのがたしか二月・・・

ちょうど「かい掘り浄化プロジェクト」の真っ最中で池に水がまったく無かったたときだった

今は水量もすっかり戻り、池の水も心なしか”綺麗に”なったような気がする・・・
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平日のお昼・・・池の中は静かだ
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帰り道・・・公園からの坂道を登る途中に「いせや」の公園店があるのだが、それがすっかりリニューアル改築されてて、えらく洒落たなんだかセレブっぽさまで感じさせる店構えになってい140527_1205

あらあら、前の「昭和」を感じさせる”うらぶれ”た構えが好きだったのに・・・

吉祥寺からまた昭和が消えてゆく


僕の吉祥寺話 43

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さて、ガンさんの初アルバム「青空」には全部で12曲が収録された

曲目は

1)かんしゃく玉  ;村上律リツ

2)たんぽぽのお酒  ;佐藤博

3)忘れもの    ;坂本龍一坂本

4)かま猫のブルース  ;佐久間順平

5)時間がありすぎて   ;佐藤博

6)ムーンライトジャグブルース   ;松田幸一ジュンペイ

7)青空    ;坂本龍一

8)南風    ;村上律

9)ことば   ;坂本龍一マツダ

10)あんた   ;松田幸一

11)3月31日  ;坂本龍一さんさん

12)わたしの自転車   ;坂本龍一

タイトルの右に書かれた名前は、その曲をアレンジした人だ ここでも坂本龍一が大活躍しているのがわかる

僕はこのうち 1) 2) 4) 6) 10)に参加

1)のかんしゃく玉はこのアルバムのオープニングテーマのような曲 ガンさんらしいオールドジャライズっぽい曲を村上律は当時みんながハマっていた「ライ・クーダー」っぽいサザンロックスタイルにアレンジ 僕はこの曲では唯一アコギを弾いている ガンさんの持ってたGUILD F-50 を使ってライクーダーっぽいシンコペの利いたリズムカッテイングと2コーラスあとの間奏で16小節のソロを任された ここはもう得意中の得意ということで、ギターをドロップDチューニングにしてかなりライ・クーダーっぽいソロを入れた これは今聞いてもなかなかいい出来だと思う 当時、これを聴いた周りのプレイヤーたちから「いいね、イサト(中川)かと思ったよ」などというお言葉をいただいた

それと同じ曲の前の8小節のソロ、ここは朝比奈ヤストが中川イサトの持ってたSTEEL DOBROをドブロ使って最高にゴキゲンなスライドソロを入れている これはぜひ聴いてほしいなあ

 

 

あとの曲すべてで僕はバンジョーを担当 楽器は当時はまだこういうサークルにはバンジョーいなかった小林清の5弦のGIBSONを借りて録音に臨んだ

2)の「たんぽぽのお酒」ではマイナーチューニングにしてスロウなアルペジオ奏法での演奏 一緒に坂本龍一がオルガンとカリンバを弾いた この演奏が後日、京都在住のベテランシンガー&バンジョー奏者の「古川豪」さんの耳にとまり 「あのバンジョーええなあ」というお言葉をいただき(やたらいただいてるね)・・・あげくは彼が当時執筆をしていたマイナーな情報誌の中で僕に「バンジョーの教則高座」をやってくれないか・・・などという話までいただいたのだが「僕はバンジョーは”本業”じゃないので」 とお断りしたのだが、これが縁で古川さんとの交流ができ、その後京都に行ったとき2度も泊めてもらったりした

 

残りの4)6)10)ではすべてディキシーランドっぽいリズムバンジョーを弾いている 本当にこのすぐ後に小林清が現れるわけだから僕はそれまでの「つなぎ」みたいなものだったね(笑)

本当は8)「南風」で僕はドブロを担当するはずだったのだが、その前日あたりに急に熱を出してダウン どうも連日真夏の暑い日中楽器を抱えてスタジオまで行き根を詰めるレコーディング作業に身体がマイってしまったようだ 結局ヤストが僕の代役でドブロを弾いたのだが、これがまた名演奏・・・僕がダウンしたおかげで素晴らしいプレイを残すことになった それにしてもヤスさん・・・勿体無いよねえ

そして、確か録音の最終日・・・芝居でいえば「千秋楽」だ・・・スタジオには今まで居なかったくらいの大勢の人間が集まっていた

ガンさんの「かんしゃく玉」のリフレインに皆でコーラスを入れるためだ

メンバーは当時のライナーから

青木とも子、安達美津子、朝野由彦、朝比奈やすと、、大津彰、小野由美子、佐久間順平、友部正人、中川イサト、中川五郎、中川水亜、藤原美智留、矢島たかし、村上律、吉田よしこヨシコ

・・・となっている そうか、吉田よしこさんとはこの時一緒だったのか

小野由美子は友部のかみさん、藤原美智留はのちに朝比奈ヤスト夫人になった 中川水亜は五郎と青木さんのあいだに生まれた長女 当時まだ乳飲み子だったが曲の中に声が入ってる(そうかあ今はもう40歳くらいなんだねえ)

女性が多かったのはそのほかの曲「あんた」で女性コーラスがたくさんほしいとのガンさんからのオファーがあったから・・・ちなみにわが妹MEGはこのときすでに渡米して日本に居なかった・・・はず

 

この録音・・・たしか9月1日だったはず・・・を最後に約1ヶ月以上かかったガンさんのアルバム「青img_tsukutsukuboshi_01空」の録音がすべて終了した

思えばその年の夏・・・僕はずうっとあのスタジオに居た・・・そんな気分だった

続く

 

 

完成したよ

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待望の泥窪の初CDアルバム「LATE SHOW」が完成しました002

いやあ・・・けっこう手間がっかった~

でも、それだけにいいものに仕上がってます

自信を持ってお勧めします

 

 

収録曲は全部で8曲 すべて彼のオリジナルです

 

1)恋してカラムーチョ

2)自転車

3)無花果004

4)ピラニア

5)花弁

6)窓

7)泥棒

8)ハングライダー

 

演奏者は 泥窪(vo/eg)、ジミー矢島(ag/eg/steel g/b)、瀬山研二(ds)

ライナーノーツは仲田修子

価格は¥1000 発売は6月13日(金)にペンギンハウスでのレコ発ライブから

明日からはこの裏話とか内容をお伝えしてきますね

 

 

最期を看取った

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本日・・・2014年5月30日18時28分・・・

2年間連れ添った僕のガラケイが亡くなりました005

死因は「契約先変更それもスマホに」症候群

電波状況の都合で使ってたのだけど元々AUってイマイチ使い辛くてイヤだったのでまた「ドコモ」に戻ったよ~ついに僕もスマホ使いだ(笑)

まあ、一番の理由はtwitter対応とあと今月末でちょうど契約が更新だったので・・・

それで・・・まだ「現物」が来てないんだよね(笑)カミさん任せなもんで 明日までは電話できない~

 

今度のはカメラ機能がすごいので・・・いい写真撮れるはず

出演者の皆さん~ お楽しみに!

 

泥窪CD制作こぼれ話 1

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それは今年の春だったドロクボ

ペンギンハウスの出演者、泥窪が「ちょっと相談したいことがある」・・・と仲田修子のところへやってきたのは

その内容とは「自分のCDを作りたいのだが協力してもらえないか」ということだった

 

 

彼には素晴らしいグレードの高いオリジナル曲がたくさんありそしてボーカルもとても魅力的な声で046いいシンガーなのは仲田修子も僕ジミーもよく知っている

それはいいことだと思ったのだがなにぶんペンギンハウスに出ているほとんどの出演者がそうであるように彼も決してリッチではないので、なるべくコストをかけずにできないものか・・・それで僕らのところへ相談に来たというわけだ

 

わかった、じゃあ・・・ということで今回のCD制作の総プロデュースを仲田修子が担当 録音はペンギンハウスの営業時間外にそこでやる(前の藤原愛もそうだったが)という012031ことで、僕がエンジニアと曲のアレンジとほとんどの楽器を担当、瀬山研二にドラムをやってもらうということで、あとレーベルの写真撮影とかデザインは僕らの友人でペンギンハウスのHPもやってもらっているCROUT山野にお願いすることにした

そして実際に何曲どの曲を入れるかのミーティングが始まった

続く

 

 

泥窪CD制作こぼれ話 2

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さて、ミーティングの結果今回のCDに収録する曲目が決まった039

泥窪にはすばらしいオリジナルがいっぱいあるのだが、今回はその中から絞りに絞って全8曲

 

 

それは彼のオリジナルの中でも「珠玉の名作」 では発表します

1)恋してカラムーチョ  ;マイナーコードでジャズっぽい曲、これは仲田修子一押し
カラ

 

 

 

2)自転車      ;泥窪らしいシュールな詩を持ったそしてブルーススタイルな曲
自転車

 

 

 

3)無花果      ;これもかなり「デカダン」な詩を持ったブルーススタイルな曲
イチジク

 

 

 

4)ピラニア     ;ドライなどこかコミカルな内容の曲 曲はちょっとノスタルジックなテイストが
ピラニア

 

 

 

5)花弁       ;泥窪の中でも最も退廃的な雰囲気を持ったスロウバラード
ケシ

 

 

 

 

)窓        ;淡々とした曲だがよく聴くとかなりエロティックな「ダブルミーニング」な詩をもった曲
マド

 

 

 

 

7)泥棒      ;おなじみ一番はじけたパワーブルース これはとにかく楽しい
ドロボウ

 

 

 

8)ハングライダー ;僕は一番気に入ってる曲 とにかく歌の内容がよく考えると 泣ける
12時

 

 

 

さて、曲は決まった それではどういう作品にしてゆくか

まずひとつ大きな課題があった

泥窪は曲もいい ボーカルもいい  ただ・・・

ギターがイマイチ弱点なのだ(笑) ゴメンね泥窪040

元蕎麦屋の僕の例えを引用すれば「蕎麦は美味いんだが、ツユがイマイチ」・・・なんだよね(笑)

そこで、今回はアレンジそしてほとんどの曲のギターを僕が弾くことになった

さて・・・そのアレンジは・・・続く

 

 

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