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Channel: ジミー矢島の日記 | 高円寺ライブハウス ペンギンハウス
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もう一度ブルース   19

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さて、今回は20年代の「ブルースハープ」に絞って何人かを紹介しよう

ブルースハープというと30年代の「サニーボーイ・ウィリアムソンⅠ」とか戦後の「リトル・ウォルター」とか「サニーボーイ・ウィリアムソンⅡ」あたりに注目が集まってしまうけど20年代のころからすでにかなりのプレイヤーが居たのだ

まずは「George Buttler Williams」 この人に関しては資料がない

続いて「De Ford BAiley」

DeFord Bailey(1899年12月14日 – 1982年7月2日)は、1920年代から1941年までアメリカのカントリーミュージックとブルーススターであった。彼はグランドオールオープリーと最初のアフリカ系アメリカ人パフォーマー。彼はいくつかの楽器を演奏しましたが、彼のハーモニニカの曲で最もよく知られています。

続いて「George Bullet Williams」

この人に関しても詳しい資料がない

最後は

ジェイバード・コールマン Jaybird Coleman
本名はバール・C・コールマン。1896年にアラバマ州ゲインズヴィルで生まれました。渾名の”ジェイバード”は第一次世界大戦に従軍した時に、始終自分の持ち場を逃げ出してしまうので鳥の”かけす”みたいな奴ということで付けられました。彼はハーモニカ演奏するためにクー・クラックス・クランのパーティによく呼ばれていたそうです

こうやって聴いてると素朴だけどこの時代のエネルギー溢れる演奏が伝わってきて、当時の南部の黒人たちのパワーを感じるね

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もう一度ブルース   20

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「ギター」「ハープ」ときたので今日は「ピアノ」について

ピアノブルースはすでに20年代のかなり始めのうちから「ブギウギピアノ」などとともに発展していた たとえばこの人

ミード・ラクス・ルイス Meade Lux Lewis

1905年にイリノイ州シカゴで生まれ、1964年にミネソタ州ネアポリスで死去しました。本名はミード・アンダースン・ルイスです。”ルクス”は渾名の”ルクセンバーグ”の略です。クリップル・クラレンス・ロフトンやジミー・ヤンシーの影響下に自己のスタイルを確立しました。1927年にパラマウントに「Honky Tonk Train Blues」を吹き込みました。

こういったブギウギピアニストと共通の部分も持ちながらそれとは一線を引いたかたちでブルースピアニストたちが居た

チャーリー・スパンドCharlie Spand
1893年5月8日 – 1958年以降 はアメリカンブルースとブギー・ウーギーの ピアニストで歌手であり、バレルハウスのスタイルで知られています。 スパンドは1920年代の最も影響力のあるピアノ・プレイヤーの1つと考えられました。

この人は「ブラインド・ブレイク」とのコンビで多くの録音を残している

スペックルド・レッド 
1891年にルイジアナ州モンローで生まれ本名はルーファス・ペリマン( Rufus Perryman )です。デトロイトに出てピアノを覚え、その後ジョージアに戻り長く暮らしました。29年にブランズウィックに「Dirty Dozens」を録音しました。

それにしても訳すと「赤い斑点」・・とは・・・当時の黒人ブルースマンには「Peg Leg Howel」訳すと「義足のハウエル」とか「ブラインド」とか身体の特徴あるいは障害を芸名にしていたものが多い とにかくインパクトで覚えてもらおう・・・ということだったのかな
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ブルースギターを弾こう 1-1

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皆さん、久しぶりに「ギターを弾こう」のコーナーをまた始めます

そして今回は「ブルース」に絞ってブルース史上よく知られた名ギタリストたちの演奏について動画と文章で紹介していきたいと思います

第1回の今回は戦前のブルースマン
「ブラインド・ボーイフラー Blind Boy Fuller」

 

彼の名曲「If You See My Pigmeat」を紹介します

まず彼について簡単な紹介

本名をフルトン・アレンといい、1907年7月10日、ノース・キャロライナ州ウェイズバラで生まれました。20歳の頃失明して音楽で生計を立てるように。ナショナル製のリゾネイター・ギターをかき鳴らして歌う「ピッコロ・ラグ」、「ラグ・ママ・ラグ」などのラグ・タイム曲はカラリとして軽快ですね

ノースキャロライナという南部でも東のアパラチア地方の出身の彼はミシシッピのようなもろブルージーな泥臭さよりも白人の影響もある柔らかでソフィスティケイトされたスタイルを持ってます 彼というと軽快なラグタイムギターで有名なんですが

上で取り上げたスロウブルースにもなかなかのテクニックと味があります

今回はこのスロウブルースの曲を解説していきますね  続く

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そんなことがあったとは

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昨日はもう言わなくても皆知っている3/11だった

あれ3から6年・・・今日Twitterを見てたらある人の書いている投稿で素晴らしいものに出会った

6年前のあの日 僕はまだ八ヶ岳に住んでいて、地震の直後から丸一日まったく電気の無い真っ暗な山の中で不安とこれからどうなるのかという思いとか色々なものが混じった気持ちでいた

その翌日12日、地元にあるライブハウスでちょうどライブの予定が入ってたので演奏に出かけた ほかの出演者もお客さんも皆一様に不安そうな表情の中

「こういうときこそ音楽が必要なんだ やるしかないのだ」そういう気持ちで演奏していた

 

その同じ日・・・ここ東京高円寺のライブハウス「ペンギンハウス」でどんなことがあったのか詳しいことは僕は知らなかった

その時のことをもし今の僕が居たらライブレポートで残せたのに・・・

 

そしたらこの文章に出会ったのだ Tamyoという韓国のユニットのライブの話し・・・

あらためてペンギンハウスって素晴らしい場所だなと・・・しみじみ思った 川口雅巳さんとは今でもとてもいいお付き合いでライブをやってもらっている 彼の心意気はあのときも今も・・・全く変わっていない

それでは→ここから見て下さい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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もう一度ブルース   13

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もう今から30年以上昔、手に入れたアルバムがある

それがこのyazooから出ていた「Mister Charlie’s Blues」というアルバムだ Mister Charlie というのは昔の黒人たちが白人のことをさして呼んだ呼び方だ(元は奴隷の所有者のことを指していたようだ)

このアルバムの中にはオムニバスで20~30年代のブルースぽい音楽を演奏していた白人のミュージシャンが紹介されている

 

その中の1人が今日紹介する サム・マギーだ

 

サム・マギー Sam McGee
米国の白人ソングスターでテネシー州のウィリアムスンで生まれました。「Railroad Blues」で知られています。10代後半の時にアンクル・デイヴ・メイコンと出会ってギターを習いました。1920年にはハーピストのデフォード・ベイリーと共に、グランド・オール・オープリーの人気者になりました。1930年代は兄弟のカーク・マギー、フィドル奏者のアーサー・スミスとデキシー・ライナーズを結成して活動しました。(以上;ラジカルビスケットより)
まずは聴いてもらおうか

こういう曲を聴いてると当時のアメリカ南部のとくに東海岸地域では黒人と白人の音楽がかなり近かったあるいは影響を与え合っていたのがわかる

たとえばデルタブルースのキングと呼ばれる「チャーリー・パットン」だってカントリーミュージックを演奏していたというし、同じミシシッピには「ジミー・ロジャース」というもろにブルースのスタイルを取り入れたカントリーシンガーも居たわけだ

サムマギーを聴いてて当然この人のスタイルが連想されたので・・・

もうブルースファンでなくてもなんとなく名前を知っているこの人

「ミシシッピ・ジョン・ハート」で

 

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ブルースギターを弾こう 1-3

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さて「ブラインド・ボーイフラー Blind Boy Fuller」の

If You See My Pigmeat」

今度は歌中のの12小節のバッキングギターを解説しますね

 

コード進行は一般的な進行とちょっと違います

/ A    /  A    /  A    / A   /

/ D7   / D7   / A   / A   /

/ E7  /D7・E7  /A・Adim・A/ A  /

*注)原曲では1フレットにカポつけてA#のキーでやってます

 

一見カントリーブルースのスタイルでやってるように見えますが(ナショナルのスティールボディーギターを使ってるのもあって)、実はかなり洗練されたちょっとジャズっぽいフレーズも入っています 彼の後継者とされるブラウニー・マギー(Brownie McGhee)はかなり顕著にそういったフレーズを取り入れてます

では参考動画を・・・ごらん下さいませ

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もう一度ブルース   14

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戦前のブルースマンには「ブラインド Blind」つまり「盲目の」というネームが付いたものが多い

代表的な名前をあげれば「レモン・ジェファーソン」「ボーイ・フラー」「ブレイク」「ジョン・デイビス」などなど・・・

戦後にも「ブラインド」とは付かなかったが「レイ・チャールス」「スティービー・ワンダー」「ダイアン・シュアー」など盲目の優れたミュージシャンが大勢居る

 

なぜ「ブラインド」と名前の付くブルースマンが多かったかといえば、つまりこの時代に盲目である黒人は普通の仕事にはありつけず音楽をやる以外に道が無かったというのが一番大きな理由なのと、視力が無いことがそのぶん音に対する感性を育てたという要因になってるのだと思う

じっさいこれらの名前を持ったブルースマンたちは全員素晴らしいミュージシャンでまた独自のスタイルをそれぞれが創りあげていた

その中でも20年代後半に同じ 「ブラインド・ウィリー Blind Willie」という名前を持つ2人の男たちが居た

 

まず1人は ブラインド・ウィリー・マクテル

ブラインド・ウィリー・マクテル Blind Willie McTell
1901年にジョージア州オーガスタの近くのトムスンで生まれ、1959年に同州ミレッジヴィルで死去しました。本名はウィリー・サミュエル・マクテル( Willie Samuel McTell)です。生まれながらの盲目ですが、小さい頃からギターを弾き始め、12弦ギターも習得しました。その後、南部一帯を放浪して種々の音楽を摂取し、ブルース、ラグ・タイム、スピリチュアル、バラッドなど多彩な演奏目録を持っています。1927年から35年までに60曲以上を録音し、戦後にも49年と56年に録音を残しています。(以上;ラジカルビスケットより)

 

若い頃僕は彼の曲をたくさん聴いていた その後「ブラインド・ブレイク」や「ビッグ・ビル・ブルンジー」などのギタースタイルに辿り着くその中間点として彼のギタープレイを大いに研究したものだ その華麗と言ってもいい12弦ギターのプレイは今聴いてもちょっとうっとりするような響きがある そしてちょっと鼻にかかったメロウな歌声も好きだった

僕が聴いてた当時の彼の声は妙に甲高い感じがしたのだけど、どうもそれは新しく録音するときのレコードの回転数が間違っていたみたいで実際の声は下の曲の感じに近かったようだ 曲中で合の手を入れてるのは彼の妻だ 盲目のブルースマンにとってはどこへ行くのにも必ず手を引いてくれる付き添いが必要だったのでこのように奥さんが一緒に居てついでに一緒に歌ったりお客が払う「投げ銭」を誤魔化されないように見張る必要があったのだと思う

 

そうしてもうひとりは ブラインド・ウィリー・ジョンソン

ブラインド・ウィリー・ジョンスン Blind Willie Johnson
1897年に中部テキサス州マーリンの近郊で生まれました。その生涯について詳しいことは分かっていません、7歳の時に両親の夫婦喧嘩のトバッチリで洗剤が目に入り失明したと言われていますが、経緯のほどは不明です。当時の貧しい黒人家庭では、胎児期や幼少期の栄養不足でも起こり得ることです。葉巻の空き箱を加工してギターを作り、独学で奏法を習得した彼は、生計を立てるため弾き語りの辻説教師(ジャックレッグ・プリーチャー)としてダラスを中心に流して歩きました。やがてコロンビアにスカウトされ、1927年から1930年にかけて30曲を吹き込みました。しゃがれた暗い迫力ある歌声と、オープンD・チューニングを使ったナイフ・スライド・ギターは絶品で、「Mother’s Children」、「I Just Can’t Keep from Crying」、「Dark Was the Night」など後代に取り上げられた曲は多くあります。彼はずっと牧師として赤貧の流しを続け、1945年に急性肺炎で亡くなりました。自宅が火災に遭った後、濡れた床で寝ていて風邪を引き、それでも生活の糧を稼ぐために路上で歌い続けて倒れたのです。(以上;ラジカルビスケットより)

 

ここで最初にはっきり説明したいのは彼は「ブルースマン」ではないということだそのギターも歌い方も本当にブルースぽいのだが、彼は「ゴスペルシンガー」だったのだ
ただ、当時はブルースとゴスペルは曲の構成と歌詞が違うだけでその表現法はすごく近かった まるでトランプカードの表裏のようで、実際ブルースマンの多くはゴスペルも歌っていた(その逆はあまり無いのだが)

 

それではまるでデルタブルースのようなスタイルで歌われているこの曲を

どうだろう、このインパクトたっぷりの演奏・・・

このあとの時代にもブルースとゴスペルは互いに影響を与え合いながら発展してゆくのだよね

それでは次の曲は「ヴィム・ベンダーソン」が監督したブルースのドキュメンタリー映画「Soul of Man」に使われた「Dark Was The Night」この曲はアメリカNASAが打ち上げた探査衛星「ボイジャー」の中に積まれた地球の文化を紹介するための資料レコードの中に入れられて今も宇宙を旅しているそうだ ギターと唸り声だけのこの曲 いつかどこかの星のエイリアンたちがこれを聴くのだろうか

 

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ブルースギターを弾こう 2-3

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ブラインド・レモン・ジェファーソン(Blind Lemon Jefferson)

彼のナンバー「Blach Horse Blues」

 

 

 

では今日はその後半を解説します

今のブルースとはまったく違うギタースタイル・・・ちょっと戸惑うかも知れませんがぎゃくにこれまでのブルースには無かった新しいものが発見できるかも・・・

さて、次回は・・・誰にしましょうかねえ
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出演するには?

 

 


もう一度ブルース   21

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さて、今までは20年代のブルースマン それもカントリーブルース系のそれも男性ばかり・・・むくつけきGUYSばかりを紹介してきたので、たまには女性のそれもちょっと妖艶な感じのシンガーを紹介しようと思う その人は

ヴィクトリア・スピヴィー Victoria Spivey

1910年にテキサス州ヒューストンで生まれ、1976年にニューヨークで死去。ピアノ、ウクレレを演奏するクラッシク・ブルース歌手。1926年、16歳の時にオーケーから出した初めての曲「Blach Sneke Blues」がヒット。ルイ・アームストリング、ロニー・ジョンソンなどの伴奏をしたり。1960年代にはシカゴで自身のレーベル、スピヴィー・レーベルを設立して数多くの録音を残している・・・。

まず写真で顔を見てみよう かなりの美人だ! 美しいだけではなくなんともフェロモンの漂うセクシーな雰囲気が漂っている それは最初のヒット曲「ブラックスネイクブルース」を聴いてもわかるだろう

 

 

上の音源は1926年にはじめて発表したものでこの曲ではブルースというよりジャズスタイルで歌い方もまだ上品だ その後30年代以降に発表した同タイトルの曲ではまったく違うかなりエッチなブルースになっている

 

その音源は僕が持っている「BAWDY BLUES 」というアルバムに収録されてるが、残念ながらYOUTUBEには無かったので63年に「ロニー・ジョンソン」「サニーボーイ・ウィリアムソン」とやったライブ版が近いのでここに紹介しよう

63年といえば彼女はもう53歳なのだが、どうだろこの妖艶さ・・・表情がヤバいよね

僕は昔の「夏木マリ」を連想してしまった

ロニージョンソンとは何曲もいい録音を残している この曲もどうだろう

「Steady Grind」って直訳すると「しっかりと粉々にする」っていう意味だけどたぶんセクシャルなスラングなんだと思う

 

ところで彼女は60年代に入ると自分でレコードレーベル「Spivey Record 」

を立ち上げ多くのブルースマンの音源を残した そのなかに唯一白人のそれもまだ若いミュージシャンを起用した それが誰かって?

 

スピビーがとても気に入って一緒に写真も撮ったのは・・・

この写真を見たことある人は・・・多いんじゃないかな

 

 

 

 

 

 

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もう一度ブルース   22

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ブルースの、それも戦前の旧い動画は無いものか・・・そう思ってもうずいぶんとYOUTUBEなどで探しているのだけど、なかなか出てこない

今のところ見つかったのはあのクラシックブルースの女王「ベッシー・スミス」のこの動画

これはストーリーのある短編ミュージカル映画になってる

悪い男にひどいめに合される女(ベッシー)が酒場で嘆きながら「セントルイスブルース」を歌うという内容で歌はフィルムの6分58秒のところから始まる

今のところ僕が確認できたブルースシンガーが歌ったり演奏したりするものを撮ったのはこれしか見当たらない 考えてみれば当時のアメリカでは黒人のブルースなんて「レイス(人種の)ミュージック」で全く相手にされてなかったのだろう なにしろ当時のブルースマンには動画どころか写真さえ残されていないものが多かったのだから

実はアメリカではこういった黒人音楽とくにブルースに関しての記録が撮られるようになったのはかなり後・・・むしろヨーロッパやイギリスでそういったものが撮られるようになって追いかけるように始まったんじゃないかと思う

でも、黒人の音楽に対しての動画記録がまったく無かったかというとそうではなかった

ブルースではないが残されてたものもあるのだ

ウクレレを弾いて小唄を歌う黒人男性とそれにウォッシュボードでリズムをつける相方

きっと当時はこんな感じでブルースも演奏されてたんじゃないかな

こういったスタイルの演奏だといくつか残ってるんだ 続きは明日

 

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もう一度ブルース   23

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チャック・ベリーが一昨日亡くなった

90歳だからまあ「大往生」と言っていいんだろう・・・残念と言いたいけどこの数年はもうかなり老いぼれちゃっててライブの映像を見るともう悲惨なくらいにボケちゃったかつてのロックヒーローの姿に悲しい思いをしていたので(アメリカのショウビジネスの世界って「金に成るなら何だっていい」という体質がスゴすぎる)まあこれで彼も穏やかな世界に行けるのかな・・・と思っている

僕はもうずうっと前から「チャック・ベリーにはノーベル賞を与えるべきだ」と思ってた

ボブ・ディランが「文学賞」を受賞したときも思ったのだが、そもそもディランもビートルズも彼が居なかったら今のような音楽をやれていたかどうか・・・

そう思うとこの偉大なイノベーター、ロックンロールの生みの親であつチャックに敬愛の思いをいくら送っても足りないと思う

そうそう、彼は最初からロックンローラーだったわけではない

初めて、あのマディー・ウォーターズが「面白い若者が居る」と言って彼をCHESSレコードのオーナー「レナード・チェス」のところに連れてきたことがすべての始まりだ

ここらへんのことは映画「キャデラック・レコード」にも出てくる

最初「夜 ずっと遅く」という曲をレコーディグしたがっていたチャック それはよくあるようなスタイルのブルースだった それを聴いたチェスはイマイチ気に入らなかった

「何かほかに曲はないのか?」

そう訊かれたチャックは「じゃあ」と言って自分が知ってるカントリーミュージックをちょっと変えた「Maybellene」を演奏した

それを聴いたチェスは「これだ!」と言ってすぐさまその曲がチャック・ベリーのデビュー曲になった

彼の歌い方もギターもそれまでのブルースシンガー・・・とくにシカゴブルースのブルースマンたちには無かったスタイルだった

フラット気味に音程を取るミシシッピ出身の彼らに比べてむしろシャープ気味に取った歌の音程 ベットリと粘るのではなくサラッとスピード感を重視したギター ブギやシャッフルではなく明らかにはっきりと8ビートに乗ったリズム そして今までのソングライターには全く無かった新しい感覚の曲(とにかくベートーベンをぶっ飛ばしちゃうんだから)

それらのすべてが、当時の若い世代の黒人・・・それを飛び越えて白人の若者たちにもどれだけ刺激とインスピレーションを与えたか・・・

それは電波やレコードに乗ってあちこちに飛散した

シカゴよりさらに北のミネソタ州でも、海を渡ったはるかリバプールでも・・・

世界中で若者たちがギターを手に取り歌い始めた

それは今まで僕らが経験してなかった新しい音楽の始まりだった

それがまさか50年以上過ぎた現在にこれだけ世界中で色々なスタイルで演奏されることになるとは・・・当のチャックも思わなかったかも知れない

時間は過ぎる 人は老いやがて死を迎える

しかしその遺したものは時間を経ても色あせずずっと受け継がれてゆく

このR&Rという素晴らしいDNAを残してくれた彼ら(エルビスもリチャードもレイもオーティスもジョンもジミもジャニスも)に「ありがとう!」と言いたい

チャック・ベリー・・・無冠のキング・・・安らかに

 

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もう一度ブルース   19

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さて、今回は20年代の「ブルースハープ」に絞って何人かを紹介しよう

ブルースハープというと30年代の「サニーボーイ・ウィリアムソンⅠ」とか戦後の「リトル・ウォルター」とか「サニーボーイ・ウィリアムソンⅡ」あたりに注目が集まってしまうけど20年代のころからすでにかなりのプレイヤーが居たのだ

まずは「George Buttler Williams」 この人に関しては資料がない

続いて「De Ford BAiley」

DeFord Bailey(1899年12月14日 – 1982年7月2日)は、1920年代から1941年までアメリカのカントリーミュージックとブルーススターであった。彼はグランドオールオープリーと最初のアフリカ系アメリカ人パフォーマー。彼はいくつかの楽器を演奏しましたが、彼のハーモニニカの曲で最もよく知られています。

続いて「George Bullet Williams」

この人に関しても詳しい資料がない

最後は

ジェイバード・コールマン Jaybird Coleman
本名はバール・C・コールマン。1896年にアラバマ州ゲインズヴィルで生まれました。渾名の”ジェイバード”は第一次世界大戦に従軍した時に、始終自分の持ち場を逃げ出してしまうので鳥の”かけす”みたいな奴ということで付けられました。彼はハーモニカ演奏するためにクー・クラックス・クランのパーティによく呼ばれていたそうです

こうやって聴いてると素朴だけどこの時代のエネルギー溢れる演奏が伝わってきて、当時の南部の黒人たちのパワーを感じるね

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もう一度ブルース   20

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「ギター」「ハープ」ときたので今日は「ピアノ」について

ピアノブルースはすでに20年代のかなり始めのうちから「ブギウギピアノ」などとともに発展していた たとえばこの人

ミード・ラクス・ルイス Meade Lux Lewis

1905年にイリノイ州シカゴで生まれ、1964年にミネソタ州ネアポリスで死去しました。本名はミード・アンダースン・ルイスです。”ルクス”は渾名の”ルクセンバーグ”の略です。クリップル・クラレンス・ロフトンやジミー・ヤンシーの影響下に自己のスタイルを確立しました。1927年にパラマウントに「Honky Tonk Train Blues」を吹き込みました。

こういったブギウギピアニストと共通の部分も持ちながらそれとは一線を引いたかたちでブルースピアニストたちが居た

チャーリー・スパンドCharlie Spand
1893年5月8日 – 1958年以降 はアメリカンブルースとブギー・ウーギーの ピアニストで歌手であり、バレルハウスのスタイルで知られています。 スパンドは1920年代の最も影響力のあるピアノ・プレイヤーの1つと考えられました。

この人は「ブラインド・ブレイク」とのコンビで多くの録音を残している

スペックルド・レッド 
1891年にルイジアナ州モンローで生まれ本名はルーファス・ペリマン( Rufus Perryman )です。デトロイトに出てピアノを覚え、その後ジョージアに戻り長く暮らしました。29年にブランズウィックに「Dirty Dozens」を録音しました。

それにしても訳すと「赤い斑点」・・とは・・・当時の黒人ブルースマンには「Peg Leg Howel」訳すと「義足のハウエル」とか「ブラインド」とか身体の特徴あるいは障害を芸名にしていたものが多い とにかくインパクトで覚えてもらおう・・・ということだったのかな
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ブルースギターを弾こう 1-1

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皆さん、久しぶりに「ギターを弾こう」のコーナーをまた始めます

そして今回は「ブルース」に絞ってブルース史上よく知られた名ギタリストたちの演奏について動画と文章で紹介していきたいと思います

第1回の今回は戦前のブルースマン
「ブラインド・ボーイフラー Blind Boy Fuller」

 

彼の名曲「If You See My Pigmeat」を紹介します

まず彼について簡単な紹介

本名をフルトン・アレンといい、1907年7月10日、ノース・キャロライナ州ウェイズバラで生まれました。20歳の頃失明して音楽で生計を立てるように。ナショナル製のリゾネイター・ギターをかき鳴らして歌う「ピッコロ・ラグ」、「ラグ・ママ・ラグ」などのラグ・タイム曲はカラリとして軽快ですね

ノースキャロライナという南部でも東のアパラチア地方の出身の彼はミシシッピのようなもろブルージーな泥臭さよりも白人の影響もある柔らかでソフィスティケイトされたスタイルを持ってます 彼というと軽快なラグタイムギターで有名なんですが

上で取り上げたスロウブルースにもなかなかのテクニックと味があります

今回はこのスロウブルースの曲を解説していきますね  続く

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もう一度ブルース   24

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「ブルース」以外の画像だといくつかみつけることができた

まずは「chaingang worksong」刑務所で労働する囚人たちの労働歌・・・同じような「フィールドハラー」とともにこういうものもブルースの下敷になっていたと言われている

「ライトニン・ホプキンス」をはじめ多くの黒人ブルースマンが囚人の経験をしている それは当時のアメリカ南部で奴隷から開放された黒人たちをまた同じように扱えるように「犯罪者」として拘束するというひどい差別が横行してたからだという

道を歩いてただけで「放浪罪」で逮捕されるなんてことが普通にあったそうだ

もうひとつは田舎の黒人の農夫らしいおじいさんがバンジョーを弾いて歌うシーン

それにあわせて踊る子供たちが可愛い ブルースもこんな感じで歌われてたんじゃないかな

 

明日は意外と多く残ってる「ジャグ」の映像だ

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もう一度ブルース   25

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「ジャグ」は楽器ではない 大きいビンに唇で作った「ブーッ!」という音(トランペットなどを吹くときと同じ唇の使い方で)を反響させてチューバみたいな音を作るのだ

しかし、これが以外に人気で昔からさまざまなところで使われてきた

一番ポピュラーなのが「ジャグバンド」これは以前にも紹介したけど、それだけではないところでも使われてきたようだ

まずはこの映像 ギター、バンジョーそして3人の「ジャグブロワー」がなかなか軽快で楽しい音楽を演奏している

 

そして次は・・・おっと「アニメ」それもスヌーピー」じゃないか!

この中でスヌーピーとその兄弟が楽器を持って演奏するシーンが出てくる ギターにバンジョーにドラムにレゾネーターギターまで・・・そしてちょっと太っちょの子犬が吹いてるのがまぎれもなくジャグだ そのシーンは最初のほうと後半の18分ごろに出てくるよ

 

そうそう、アメリカのアニメにはこういった楽器を演奏するシーンが出てくるものがけっこう多いのだ 次回からそれを・・・

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もう一度ブルース   26

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アメリカの旧いアニメといえばやはり「ミッキーマウス」でしょう

昔のミッキーは今みたいにアイドルぽくなくてどちらかというと笑えるキャラクターだった

ストーリーは色々あるのだけど、劇中で楽器を演奏するシーンもけっこう多くあるのだ

これはミッキーが辻でオルガンを弾いたり、マジックで取り出したピアノと格闘する・・・といったシーンが出てくる

次のストーリーは「お化け屋敷」に紛れ込んでしまったミッキーがユウレイやガイコツとオルガンを弾いて遊ぶというちょっとホラーな話

次はミッキーが動物仲間とバンドをやっているシーン これなんか完全にジャズだ

最後はミッキーたちが田舎のローカルラジオ局で演奏をするシーン これなんか当時の放送機材なんかが出てきて面白い

ただ、いくら探してもミッキーがブルースをやるシーンは無かった これはやはり作者であるウオルト・ディズニーがガチガチの保守思想の持ち主で「ニグロの音楽なんてとんでもない」と思ってたからだと思う その証拠に割りと最近になるまでディズニーのアニメに黒人はほとんど出てこない

「ああ、ブルースのアニメは無いのかなあ~」

そう思ってたら面白いものを見つけた 続きは明日

 

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もう一度ブルース   27

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ブルースの動画を探してYOUTUBEをあれこれ探してたらこんなものが出てきた

最初は「うわ、あの時代にこんなブルースアニメがあったのか!?」

・・・と思ったが、どうやらこれは最近になって誰かが昔のアニメに勝手にブルースの曲を被せたものらしいとわかった

 

 

でもけっこう面白いのでいくつか紹介しよう アニメと曲のマッチングが・・・なかなか面白い このアニメはカエル?・・・なのかな

演奏は「ガス・キャノン」の「cannon’s jug stompers」

次は「ヘンリー・トーマス Henry Thomas」
1874年にテキサス州ビッグ・サンデイで生まれ、1930年に死去。”ラグタイム・テキサス”と名乗り、1927年から1929年にかけて24曲をヴォキャリオンに吹き込んでいます。彼はブルースを録音した最も古い世代であり、ソングスター的な存在でした。ギターを弾きながら、ヨーデルに似たアフリカを起源とするフーピング唱法で歌い、またクウィルやキャリゾの茎で作ったパンパイプを吹いて、ミシシッピのファイフ音楽のような音響効果を出すことも

明日も続きを

 

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もう一度ブルース   28

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最初は 「リロイ・カー Leroy Carr」
1905年テネシー州ナッシュビルに生まれ。名曲「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルース」の作曲者としてまたシティ・ブルースの確立者として重要です。1928年6月、ギターのスクラッパー・ブラックウェルと組んで「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルース」と「マイ・オウン・ロンサム・ブルース」の2曲を初録音しました。「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルース」がヒットして、それ以降、百数十曲を録音しています。

次はロバート・ジョンソン

こんなに暗くて不吉な内容の曲もアニメが入るとなんだかコミカルに聞こえてしまうから不思議だね

 

まだあるよ・・・続く

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もう一度ブルース   29

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これはLeona Williams というたぶん20年代のクラシックブルースシンガーだと思う

全くの同姓同名で今も活躍している女性カントリーシンガーがいるけど別人でしょうね

このアニメに登場するのはかの「ベティーちゃん」だ もう僕の子供の頃はよく目にしていたセクシーアイドルでフルネームは「Betty Boop」という このアニメではとくにその色っぽさがハンパじゃない 第二次世界大戦中の米軍パイロットのなかには彼女のイラストを愛機に描いてたものも居たという

もういっちょはもう有名な「ブラインド・ブレイク」の「Diddie Wah Diddie」だ それにしてもうまくアニメとジョイントしてるなあ 作ったのはどこの誰なんだろう

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