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Channel: ジミー矢島の日記 | 高円寺ライブハウス ペンギンハウス
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もう一度ブルース   1

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久しぶりにブルースについて書こうと思う

今回は1920年代のブルースギタリスト(シンガー)に限るけど、じつは1920年代ってブルースのレコーディングがはじめて行われた時期で、それまでアメリカの広い各地にそれぞれの発達をしていたブルーススタイルがようやくそれ以外の地域へも広がって行くターニングポイントでもあった

1929年のアメリカの大恐慌をきっかけにせっかく盛り上がりかけていた南部のレイスレーベル(マイナーレーベル)のブルースレコードはすっかり消えてしまい多くのブルースマンがその後「消息不明」になって長い年月忘れ去られる・・・といういきさつを迎えるのだが、それまでのとにかく24~29年のあいだに本当にものすごい数のブルースが記録に残され、おかげで現代の僕らの耳にも届くことが可能になったわけだ

 

そして20年代と言うやっとメディア(主にレコードとラジオという媒体)が発達してきてアメリカ全体で「ブルース」というもののある程度の「基本スタイル」が出来上がっていく・・・その「前夜」の模様がこうして今聴いてみると驚くばかりの地域の特色の違いや「これがブルース?」と首をかしげたくなるくらいに個性的なものがあったりと・・・いやあ、面白いのだ

まず初日の今日は初めて「ブルース」という音楽がレコードになったこの人

マミー・スミス Mamie Smith
1883年5月26日にオハイオ州シンシナティで生まれました。1913年にハーレムに出て、多くのキャバレーに出演しました。1920年に黒人作曲家でありバンド・リーダーだったベリー・ブラッドフォード( Perry Bradford )に出会い、同年2月14日、オーケーに黒人女性歌手として史上初めての録音を行ないます。次いで同年8月に録音した「Crazy Blues」と「It’s Right Here For Me」が大ヒットしました。その後もオーケーに約100曲ほどの録音を残しています。1929年にウオール街の株価大暴落から始まった大恐慌の津波は、黒人層を直撃し、レイス・レコードの売上げは激減し、多くの歌手達が消えていきました。マミー・スミスの録音歴も、1931年2月19日を最後にして途絶え、1946年9月16日にニューヨークで死去しました。(以上ラジカルビスケットより)

彼女はいわゆる「クラシックブルース」と呼ばれたグループに入ってた人で、彼女のあとに「マ・レイニー」「ベッシー・スミス」などの大物シンガーが次々と登場するがすべて女性シンガーでしかもジャズバンドがバックに付くというスタイルだった

実は男の弾き語りのブルースマンが登場するのはそれよりもかなりあとの1924年の「パパ・チャーリージャクソン」からになる

 

それではその世界で初めてレコードになった・・・つまり記録されたブルース

「Crazy Blues」を

そしてこちらはそれから15年後彼女が映画に出演したときの映像です

次回からはその弾き語りブルースマンの紹介をしてきますよ

 


もう一度ブルース   2

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男性の弾き語りブスースマンのレコーディング第一号になったこの人
シルヴェスター・ウィーヴァー Sylvester Weaver

1897年にケンタッキー州ルイヴィルで生まれ、1960年に同地で死去しました。ジョージア州を拠点に活動したギタリストです。23年に録音したギターによる器楽曲「Guitar Blues」が最初のカントリー・ブルースとして知られています。その後の録音は弾き語りで「Sylvester Weaver Vol.1」、「Sylvester Weaver Vol.2」に収められています。友人のウォルター・ビーズリー( Walter Beasley )と行動を共にし、ふたりはそっくりな演奏をします。1927年にヘレン・ヒュームズを伴奏しました。 (以上ラジカルビスケットより)

じつは僕はこの人のことは全く知らなかった きっとレコーディングはしたけどそれほど評判にはならなかったのだと思う で、今回はじめて聴いてみたこの曲・・・

びっくりした なかなかいいじゃないか! 歌は無くて曲もブルースではないインストでスライドギターを弾いてるのだが・・・これって「ライ・クーダー」に似てない?ねえ これが1923年に吹き込まれたって・・・だからもうギターブルースの文化はかなり発達してたということなんだろうねえ

 

そして商業的に成功した第一号というとやはりこの人
パパ・チャーリー・ジャクスン Papa Charley Jackson

戦前のバンジョー奏者です。1885年にニューオーリーンズで生まれ、1938年にシカゴで死去した、と言われています。1920年代前半のブルース録音は女性歌手の全盛時代でしたが、男性では最初に録音されたのがシルヴェスター・ウィーヴァー、4番目がパパ・チャーリー・ジャクソンでした。1924年にパラマウントに「Papa’s Lowdy Lowdy Blues」、「エアリー・マン・ブルース」を吹き込みました。以降30年代までに同社の専属として60曲を吹き込み、34年から35年にかけてオーケーに10曲を吹き込みました。34年にはビッグ・ビル・ブルーンジー、ブラック・ボブと共演してブルーバード、バナーに吹き込み、バンブル・ビー・スリムとの吹き込みでは伴奏を務めています。(以上ラジカルビスケットより)

ブルースマン第一号とは言ったけどこの人の使ってた楽器はバンジョーだし、曲調もブルースというよりもコミカルな「小唄」のような感じだ

意外と知られてないのだがブルースという音楽は元々は田舎のボートビルショウやメディスンショウという怪しげな薬を口上や音楽を使った売込みで買わせるというところのニーズから生まれた背景もあるということをお伝えしときますね

ライブのお知らせ

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はい、もう3週間を切ったから告知させて下さいませ

来月11月9日(水)のペンギンハウスライブは

「アコギ3人男」と題して今ペンギンハウスに出演しているプレイヤーのうちアコギだけでやってる凄いの三人集めての対バンです

 

これはもう「対バン」と言うより「バトル」になりそうです!

 

出演は「伊藤悦士」「大濱吾朗」「ジミー矢島」の三人! お楽しみに!!

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高円寺ライブハウス ペンギンハウス

もう一度ブルース   3

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さて、ギター弾き語りのブルースマンで1920年代に活躍したといえばやはりこの二人を出さないわけにはいかないね

それぞれ「ミシシッピブルースの父」 「テキサスブルースの父」と呼ばれる

まずは
チャーリー・パットン Charley Patton

「デルタ・ブルースの創始者」と称されるチャーリー・パットンはロバート・ジョンソンやブッカ・ホワイトらの憧れの的でした。
1887年頃、ミシシッピー州エドワーズ近郊に生まれました。1900年頃、両親と彼の12人の兄弟達とサンフラワー郡にあるドゥカリー農園に引っ越し、1924年まで暮らしています。彼は、そこで年長のミュージシャンであるヘンリー・スローンという人にギターを習います。やがてスカウトされて、1929年6月にパラマウントに初レコーディングを行い、そこで翌年まで在籍し40曲ほどを吹き込んでいます。ギターの弾き語りのほかに、ウィリー・ブラウンとのデュエットや、ヘンリー・シムズのフィドルをバックにしたものなども聞け、バラッドやスピリチュアル、ゴスペル、ラグタイムなど曲種は広範囲に渡っています。その後、1934年にアメリカン・レコード・カンパニー( ARC )に29曲ほど吹き込みます。最後のレコーディングが行われた3ヶ月後にミシシッピー州インディアノーラで心臓弁膜症で亡くなりました。
彼のスタイルはデルタ・ブルースの真髄が詰まったもので、弦をはじいて胴にぶつけたり、胴を叩きながら弾いたりする打楽器的な奏法、さらにボトルネック奏法を使ったりしています。それらはウィリー・ブラウンやサン・ハウス、トミー・ジョンソン達に大きな影響を及ぼしています。(以上;ラジカルビスケットより)

この人のすごいのはもちろんその演奏力なのだが、それとともにその後のブルースの歴史に大きく関ることをやってたってことだ

彼によってミシシッピの「デルタブルース」の骨格が出来上がったと言っても言いすぎじゃない

そしてその影響は「サン・ハウス」「ロバート・ジョンソン」「マディー・ウォーターズ」「ハウリン・ウルフ」などを経て「ローリングストーンズ」をはじめとするロックにまで及んでるってことだ

では「チャーリー・パットン」で

そして2人目の
ブラインド・レモンジェファーソン BLIND LEMON JEFFERSON

この人のことはこのあと「ブルースギターを弾こう」というニューコラムを始めるのでそこで細かく紹介するけど、彼が「テキサスブルースの父」と言われながらもチャーリー・パットンとは大きく違うのはそのあとのフォロワーがほとんど居ないということだ

まあ、広い意味で言えばその後のテキサスブルースに影響を与えたのかも知れないが(たとえば若いときにレモンの介添えをやっていたこともある「ライトニン・ホプキンス」のギターには時々レモンぽいフレーズが出てきたりする)、とにかくこの人はものすごいテクニシャンでもあるだけでなくそのフレージングのユニークさからか結局それを引き継ぐものが現れなかった

それにやはり特に「ロバート・ジョンソン」が現れてからのブルースの主流がミシシッピデルタからの影響にほぼ独占されてしまったからかも知れない

でもやっぱり凄いのだ では彼の代表作

That Black Snake Moan’ (1926)

僕の吉祥寺話 12

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さて・・・武蔵野タンポポ団だが、この名前の由来から説明しよう

 

中心メンバーのシバがその当時ものすごく貧乏をしていて食料も買えず、ついには道端の野草などを採ってきてそれを料理して食べていた・・・特にタンポポが中心に・・・というエピソードがバンド名の由来となっている

 

彼らのやっていたスタイルは「ジャグバンド」と言われるもので、元は1920年代ごろを中心にアメリカ南部の黒人たちの中のちゃんとした楽器を持たない、というよりは持てない貧しい連中が洗濯板やタライそれに大きなビンなどを使って気ままに演奏するスタイルとして広まっていたもので、むこうでは「メンフィス・ジャグバンド」「キャノンズ・ジャグ・ストンパー」などが有名だが・・・そういうわけでこの日本初(?)のジャグバンドも当初のメンバーは固定せず、と言うよりその日にぐゎらん堂に居た誰でも参加することが出来る・・・そういう”ゆるい”体制だったのだ

 

だから楽器もギターやベース、マンドリン、ブルースハープなどというちゃんとした楽器だけでなく空き瓶を使ったジャグやタバコのビニールカバーなどを使ったカズー、スプーンを2本打ち合わせてカスタネットのように鳴らしたり・・・とまさに「ジャグバンド」スタイルだったのだ

 

だが、やがてこのバンドの評判が広まりあちこちで演奏するようになると自然に”ちゃんと演奏の出来るメンバー”だけに絞られていわゆる「素人」は除外されてゆくようになってきた

 

当時のメンバーは「シバ」「高田渡」「若林純夫(通称ウディー)」「村瀬雅巳(春樹氏の弟)」「山本コータロー」が中心でそこにイレギュラーで「友部正人」「中川イサト」「岩井宏」などが加わったりしていたが、のちに大きくメンバーチェンジを迎えることになるが、ここらへんの話には色々な状況が加わるのでもう少しあとで話す

とにかくこのバンドの影響力は当時すさまじく、そのすぐあとから全国のあちこちで「○○ナントカ団」などというようなユニットがそれこそ雨後の筍のように出現したことを見てもわかる

そして、世の中はなんとなく「シラケ時代」に突入し日本中がなんともいえない倦怠感とあきらめや無力感に囚われていた頃・・・若者たちも当然そうだったわけで「社会をなんとかしよう」という考えよりも「今生きてる自分はなんなんだ」・・・そういう問いかけを自分自身に向ける

生み出されるものも当然そういったものを反映し「個人的なこと」に向かってゆく

そういう方向性をもって生み出されていたた曲を世間はカンタンにひとつの言葉で切って捨てた

「四畳半フォーク」・・・と まあ外れてもいなかったわけだけどね(笑)

そしてその「四畳半フォーク」の代表みたいに取り上げられていたシバとは・・・どんな人だったのかというと・・・

続く

 

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ジミー矢島ギターセミナー(超初心者向け)始めます!

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ジミー矢島ギターセミナー(超初心者向け)!

 

DSC_9972ギターは持ってるけど全然弾けない

どうしても押さえられないコードがある

どうやって弾いたらいいのかよくわからない

昔ちょっと弾いたことあるけどずうっと弾いてない

そもそも面倒くさいレッスンは受けたくない

などなど・・・・

 

 

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もう一度ブルース   4

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さて、20年代のブルース・・・ものすごく沢山あるのでどれを紹介しようか迷ってしまうのだが、とりあえずこの2人からいってみようか

二人ともミシシッピ州の「ジャクソン」という街で活動していたブルースマンだ

ジャクソンという街はミシシッピ州の州都で一番大きな都市だそうだ だから音楽も同じミシシッピでもデルタ地帯に比べるとちょっと洗練されていたようだ

 

トミー・ジョンスン Tommy Johnson

戦前のジャクスン・ブルースの創始者の一人とされるのがトミー・ジョンスンです。1896年にミシシッピー州ジャクスン近郊で13人兄弟のひとりとして生まれました。父方の親戚にはロニー・ジョンスンがいます。一時、デルタ地帯のドッケリー農場で働き、チャーリー・パットンやウィーリー・ブラウンと交流し、彼らのスタイル形成に決定的な影響を与えました。1928年のメンフィスで行われたビクターのフィールド・レコーディングで8曲、1930年にパラマウントに6曲をレコーディングしています。代表曲は「ビック・ロード・ブルース」です。1956年頃に酒に溺れて亡くなりました。(以上;ラジカルビスケットより)
このなんだかゆったりとしたリズムとのほほんとした歌い方 ここで紹介する「Big Road Blues」はこの人の代表曲で色々なブルースマンにカバーされてるがたしかライ・クーダーもやってたはず この下から半音ずつ上がってくるベースランのリフがいいんだよねえ

2人目はこの人

ボー・ウィーヴィル・ジャクスン Bo Weavil Jackson
サム・バトラーと同一人物であり、彼の変名だという説があります。すると1926年にジャクスン名でパラマウントへの6曲のシカゴ録音、同年バトラー名でヴォカリオンへの6曲のニューヨーク録音の全12曲があることになります。代表曲は「You Can’t Keep No Brown」です。(以上;ラジカルビスケットより)

 

この人はほとんど知られてない ラジカルビスケットの紹介文も実に短い でもやはり前のジョンソンと同じくミシシッピ州ジャクソンあたりを根城にしてたブルースマンでここにあげた「You Can’t Keep No Brown」では素晴らしいスライドギターを披露している

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もう一度ブルース   6

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さて「ジャグバンド」の話の続き

昨日紹介した「ジム・クエスキンジャグバンド」だが、日本にも影響を与えた

「ミシシッピ・ジョン・ハート」などに影響を受けていた日本のフォークシンガー「高田渡」や「ライトニン・ホプキンス」や「サニー・テリー」らの影響を受けていた同じく「シバ」などが組んで1970年に活動を始めたジャグバンド、ご存知「武蔵野たんぽぽ団」

これがちょっとした火付け役になってそのあとあちこちで「ナントカナントカ団」というような名前のジャグバンドが次々に登場した

僕が覚えてるのでは「浦和あんぽん団」というのが居た記憶がある

 

そしてこの「伝統」はじつは今も続いていて日本各地に色々なジャグバンドが存在する

僕も前に時々井之頭公園でジャグバンドをやっている若者たちを見かけたことがある

多分この人たちだったと思う

 

そんなジャグバンドを愛する人たちが年に一度一同に集結する時がある

それが「横浜ジャグバンドフェスティバル」だ

残念ながら僕はまだ観に行ったことがないのだけど、このときは日本全国から「我こそは」というジャグバンドが集まってくるそうだ

なんかジャグバンドには現代の文明が置き忘れてきたすごく大事なものが一杯詰まっているような気がする

 

蛇足だけど、1970年にちょこっとヒットしたこの曲・・・僕と同世代の人なら一度くらいは耳にしたことがあるんじゃないかな?

これも実はジャグバンドスタイルをベースに演奏してたんだ

「マンゴ・ジェリー」の「In tha Summertime 」を聞きながら本日はこれくらいで

 

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もう一度ブルース   7

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さて、また1920年代のブルースの話に戻る

前に紹介した「ジャグバンド」以外でもソロではなくグループであるいはDUOで活動していたブルースの流れがあった

その中でもわりと初期の頃から形が出来上がって人気も得ていたのがギターとピアノのDUOだ

このコンビで真っ先に紹介しなくてはいけないのがこの2人

リロイ・カー Leroy Carr
1905年3月27日にテネシー州ナッシュビルに生まれました。名曲「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルース」の作曲者として有名です。また、シティ・ブルースの確立者として重要です。
1928年6月、ギターのスクラッパー・ブラックウェルと組んで「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルース」と「マイ・オウン・ロンサム・ブルース」の2曲を初録音しました。「ハウ・ロング、ハウ・ロング・ブルース」がヒットして、それ以降、百数十曲を録音しています。人気者として各地を巡業するようになりましたが、旅先で大好きな酒を飲み過ぎて肝臓を痛め、1935年4月28日の夜に出かけたオールナイトパーティの席で発作が起こり、翌朝に弱冠30歳で亡くなりました。(以上;ラジカルビスケットより)

スクラッパー・ブラックウェル Scrapper Blackwell
本名はフランシス・ヒルマン・ブラックウェルです。1903年2月21日、ノース・キャロライナ州シラキューズで16人兄弟の一人として生まれました。
リロイ・カーの相棒として、シングル・ノートによる絶妙のギター伴奏を聞かせました。彼のギターはリロイ・カーのピアノに匹敵する影響を持っていて、ビック・ビル・ブルーンジーなど多くの追随者を生んでいます。
自己名義でも29曲ほど吹き込み、1928年にインディアナポリスのヴォカリオンに「ココモ・ブルース」、「ペナル・フォーム・ブルース」を初録音しています。前者の曲は「スイート・ホーム・シカゴ」として知られているものです。以降はチャンピョンやブルーバードへ録音しています。
リロイ・カーが死んでからは、音楽業界から離れていましたが、1958年の夏に再発見され、フライライトとブルーズヴィルにLP2枚を残しています。
1962年10月6日、インディアナポリスで殺害されました。(以上;ラジカルビスケットより)

 

それでは最初にヒットしたこの曲

30年代にかけて大活躍したこの二人の人気はそれとともに多くのフォロワーを生んだ

そのあと登場した「ビッグビル・ブルンジー」や「タンパ・レッド」などのギタリストも早い時期からピアノとのコンビでレコーディングをしている

もう1人はこの人

クリフォード・ギブスン
1901年にケンタッキー州ルイヴィルで生まれ、1963年にミズーリ州セントルイスで亡くなりました。1920年頃からセントルイスで音楽活動を始めました。1029年にOSRに10曲、ビクターに12曲を吹き込み、1931年にビクターに2曲を吹き込みました。戦後は1951年と1960年に吹き込みをしています。代表曲は「Tired of Being Mistreated」、「Stop Your Rambling」です。

すごく繊細な洗練されたギターを弾くブルーマンでほとんどはソロで活動していたけれど、ピアノとのコンビでも素晴らしい演奏を残している

 

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もう一度ブルース   8

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さて、今日は2つの「Sheiks」という名前が付いたグループを紹介する

Sheiksとはそのまま訳すと「シェイクする」となるが、どうもスラングらしくて多分「イイ男」みたいな意味があるのだと思う

まず1番目はBeale St. Sheiks

このグループは「フランク・ストークス」というブルースマンが組んでいた

フランク・ストークス Frank Stokes

1887年頃に生まれ、1955年頃に死去しました。 1927年から1929年の間に、ビクターとパラマウントに44曲をレコーディングしています。パラマウントではビール・ストリート・シークス( The Beale Street Shieks )の名前になっています。ギターはラグタイム奏法を使い、曲目はバラード、ミンストレルが多く含まれています。(以上;ラジカルビスケットより)

 

そしてもうひとつは「ミシシッピシークス」

ミシシッピー・シークス The Mississippi Sheiks

1930年代に活躍した黒人ストリング・バンドです。ボー、ロニー、サムのチャットマン兄弟とウォルター・ヴィンセントの4人構成です。チャットマン一家は奴隷制の時代から音楽で生計を立てていました。11人いた兄弟は、各人が複数の楽器を演奏することが出来たそうです。ミシシッピ―・シークスは、1930年からオーケイに、1932年にはパラマウント、1933年にはコロンビア、1934年から1935年にかけてはブルーバードにと数多くのレコードを残しています。(以上;ラジカルビスケットより)

 

僕がこの2組を知ったのは昔この2組がそれぞれA面B面に入ったコンピレーション・アルバムを買ったからで、当時はそのうちの「ミシシッピ」のほうばかり気に入って(このなんとものどかで田舎っぽい音が好きだった)その後「ミシシッピシークス」のソロアルバムを買い足したり、そこのメンバーだった「ボー・カーター」のアルバムを何枚も買って聴いていた

しかし、今聴くと「ビールストリートシークス」もなかなか味があるのだ

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今回この連載を始めて僕は今まで気が付かなかったことに気付かされたことがいくつかあった

そのひとつがこの人「トミー・ジョンソン」の素晴らしさだ

 

昔熱心にブルースばかり聴いてた頃、ミシシッピブルースというとデルタスタイルの

「サン・ハウス」→「ロバート・ジョンソン」→「マディー・ウオーターズ」「エルモア・ジェイムス」といった流れのほうばかり注目していた僕にとって彼の音楽はあまりストライクゾーンに入ってこなかった

 

あれから何十年も経って今聞くと本当に素晴らしい!

 

1曲目の「Canned Heat Blues」 そのタイトルを自分達の名前にしたのがロックバンドの「Canned Heat」

彼らはトミーの「Big Road Blues」をカバーしている

 

2曲目の「Cool Drink of Water Blues」は50年代に「I Asked For Water (She Gave Me Gasoline)」というタイトルで「ハウリング・ウルフ」がカバーしている

ウルフのいわゆる「howl」を彼自身はカントリーシンガーのジミーロジャースから影響を受けたと言ってるが、ジミー自体がジョンソンの影響を受けたんじゃないかと思う とにかくその後の色々なミュージシャンにジャンルを越えて影響を与えたのがこのトミー・ジョンソンというブルースマンなんじゃないかと思う

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さて、今日はちょっと面白い曲を紹介する

まずはこれを聴いてほしい

この人は「ヘンリー・トーマス」というブルースマン

ヘンリー・トーマス Henry Thomas

1874年にテキサス州ビッグ・サンデイで生まれ、1930年に死去しました。”ラグタイム・テキサス”と名乗り、1927年から1929年にかけて24曲をヴォキャリオンに吹き込んでいます。彼はブルースを録音した最も古い世代であり、同郷のマンス・リプスカムと同じく黒人達の身の回りの生活を歌うソングスター的な存在でした。彼は鉄道の駅で演奏し、ダラスとヒューストンの往復に列車を使っていました。彼はギターを弾きながら、ヨーデルに似たアフリカを起源とするフーピング唱法で歌い、またクウィルやキャリゾの茎で作ったパンパイプを吹いて、ミシシッピのファイフ音楽のような音響効果を出すこともありました。
キャンド・ヒートは「Bull Doze Blues」を「Going up the Country」として蘇えらせ、ファグス、ラヴィン・スプーンフル、ジョン・セバスチャンは「Fishing Blues」を追演し、ボブ・ディランは「Honey, Won’t You Allow Me One More Chance? 」を追演しています。(以上;ラジカルビスケットより)
まずこれを聴いてこれが「ブルース」だとは思えない人が多いんじゃないかと思う
曲中で鳴っているのは「パンパイプ」という葦などの茎で作られた笛だ メロディーラインなんかもブルースよりもそれ以前にアフリカの民謡のような音がする
最初の頃にも言ったと思うけど1920年代のブルースには今では絶対に有りえないようなスタイルがたくさんあった その中でも抜きん出ているのがこの曲なんかなのだけど、何と先日紹介したロックバンド「キャンドヒート」がこの曲もカバーしている
なかなか面白いのだ! では

どう? なんかちょっとサイケなお洒落な曲になってるよね たとえば「ベルベットアンダーグラウンド」なんかがやっても違和感が無いと思う

今僕が考えてるのはこの1920年代の「プリブルース」ともいえるような音楽が今の音楽に何かの形でつながっていったら面白いんじゃないか・・・どうでしょ?

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ローリングストーンズはデビュー以来数多くのブルースのカバーを録音している

そもそもバンド名が「マディー・ウォーターズ」の曲名から取ってるわけでマディーやロバートジョンソンの曲などを多く取り上げてきている

最近リリースされたブルースのカバー・アルバム『ブルー&ロンサム』でも多くの曲を取り上げているようだ(僕はまだ聴いてないが)

 

そんなストーンズがカバーした20年代のブルースマンがいる その曲がこれだ

 

オリジナルはこの人

 

ロバート・ウィルキンス Robert Wilkins

1896年、ミシシッピー州ハーナンドに生まれました。本名はロバート・ティモシー・ウィルキンスです。小さい頃から義父にギターを習い、パーティなどで歌っていました。1915年にメンフィスに出て、ジム・ジャクソンやガーフィールド・エイカーズらと知り合いギターを学びます。1928年にビクターに初録音し、「Rolling Stone」がヒットするとラジオ番組にも出演するようになります。1928年から35年にかけて録音を続け、1935年のティム・ウィルキンズ名義のものも有名です。戦後の1930年代後半には説教師となり、録音はすべてスピリチュアルです。1987年、テネシー州メンフィスで死去しました。(以上;ラジカルビスケットより)

元がこの演奏 ただしこれは戦後(?)新しく吹き込まれたもののようだ

曲は違うが20年代のときの録音の・・・スタイルはまったく一緒だね(笑)

思えば60年代のとくにイギリスを中心にして戦前戦後のブルースマンの曲をカバーしたりスタイルを学んだりしていたロックミュージシャンたちがいっぱい居たのだね

日本でも70年代になってから「ウェストロード・ブルースバンド」「憂歌団」「ダウンタウン・ブギウギバンド」「サンハウス」などブルースをベースに音楽を創ってきたミュージシャンたちが大勢いるが・・・

今一度このものすごく旧いブルースたちから何か新しいヒントが掘り出されないかな・・・そんなことを最近考えてたりする

 

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もう一度ブルース   12

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今日は20年代のブルースマンの中でも「一発屋」といえる人を紹介する

その名は

ヘンリー・スポールディング Henry Spaulding

1929年にブランズウィックに「Cairo Blues」と「Biddle Street Blues」の2曲を残した戦前のセントルイスのブルースマンです。ミシシッピーの出身で、しばらくイリノイ州のカイロで活動していたと言われています。その後、ヘンリー・タウンゼンド( Henry Tawnsend )、J.D.ショート( Jay Dee Short )、テディ・ダービー( Teddy Darby )などとセントルイスで演奏しました。ダービーによると、録音したのは20歳代半ばで、38年頃に死んだそうです。(以上;ラジカルビスケットより)
わずか2曲・・・とにかくこの2曲だけを吹き込んでその後は一切レコード産業からは見向きもされずに最後は誰も知らないような形で消えていった・・・
それだけなら「ああ、ダメなシンガーだったのだね」で済まされるのだが、そのわずか2つの曲が素晴らしいのだ! とにかく聴いてみてください

2曲ともギターのとくに高音部の澄んだ音がすごく印象的で単音のピッキングにつながるコードストロークの使い方が素晴らしい ボーカルも暖か味があって聴いてて気持ちがいい もっともっといっぱい曲を残していても不思議ではないと思うが
じつはこの時代のブルースマンにはこういったたった1~2曲だけを残して消えていった者のほうが多かったのかも知れない 時代とタイミングと運の良し悪し、個人的な性格とか対人関係とか・・・色々なものが絡んで才能があっても消えてゆく・・・それは今でも同じことみたいだ
とにかく写真すら1枚も残っていない(当時のブルースマンでは普通のこと あのブラインドレモンもブラインドブレイクも残されてるのは1枚だけ)幻のブルースマンだ

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もう一度ブルース   13

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もう今から30年以上昔、手に入れたアルバムがある

それがこのyazooから出ていた「Mister Charlie’s Blues」というアルバムだ Mister Charlie というのは昔の黒人たちが白人のことをさして呼んだ呼び方だ(元は奴隷の所有者のことを指していたようだ)

このアルバムの中にはオムニバスで20~30年代のブルースぽい音楽を演奏していた白人のミュージシャンが紹介されている

 

その中の1人が今日紹介する サム・マギーだ

 

サム・マギー Sam McGee
米国の白人ソングスターでテネシー州のウィリアムスンで生まれました。「Railroad Blues」で知られています。10代後半の時にアンクル・デイヴ・メイコンと出会ってギターを習いました。1920年にはハーピストのデフォード・ベイリーと共に、グランド・オール・オープリーの人気者になりました。1930年代は兄弟のカーク・マギー、フィドル奏者のアーサー・スミスとデキシー・ライナーズを結成して活動しました。(以上;ラジカルビスケットより)
まずは聴いてもらおうか

こういう曲を聴いてると当時のアメリカ南部のとくに東海岸地域では黒人と白人の音楽がかなり近かったあるいは影響を与え合っていたのがわかる

たとえばデルタブルースのキングと呼ばれる「チャーリー・パットン」だってカントリーミュージックを演奏していたというし、同じミシシッピには「ジミー・ロジャース」というもろにブルースのスタイルを取り入れたカントリーシンガーも居たわけだ

サムマギーを聴いてて当然この人のスタイルが連想されたので・・・

もうブルースファンでなくてもなんとなく名前を知っているこの人

「ミシシッピ・ジョン・ハート」で

 

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戦前のブルースマンには「ブラインド Blind」つまり「盲目の」というネームが付いたものが多い

代表的な名前をあげれば「レモン・ジェファーソン」「ボーイ・フラー」「ブレイク」「ジョン・デイビス」などなど・・・

戦後にも「ブラインド」とは付かなかったが「レイ・チャールス」「スティービー・ワンダー」「ダイアン・シュアー」など盲目の優れたミュージシャンが大勢居る

 

なぜ「ブラインド」と名前の付くブルースマンが多かったかといえば、つまりこの時代に盲目である黒人は普通の仕事にはありつけず音楽をやる以外に道が無かったというのが一番大きな理由なのと、視力が無いことがそのぶん音に対する感性を育てたという要因になってるのだと思う

じっさいこれらの名前を持ったブルースマンたちは全員素晴らしいミュージシャンでまた独自のスタイルをそれぞれが創りあげていた

その中でも20年代後半に同じ 「ブラインド・ウィリー Blind Willie」という名前を持つ2人の男たちが居た

 

まず1人は ブラインド・ウィリー・マクテル

ブラインド・ウィリー・マクテル Blind Willie McTell
1901年にジョージア州オーガスタの近くのトムスンで生まれ、1959年に同州ミレッジヴィルで死去しました。本名はウィリー・サミュエル・マクテル( Willie Samuel McTell)です。生まれながらの盲目ですが、小さい頃からギターを弾き始め、12弦ギターも習得しました。その後、南部一帯を放浪して種々の音楽を摂取し、ブルース、ラグ・タイム、スピリチュアル、バラッドなど多彩な演奏目録を持っています。1927年から35年までに60曲以上を録音し、戦後にも49年と56年に録音を残しています。(以上;ラジカルビスケットより)

 

若い頃僕は彼の曲をたくさん聴いていた その後「ブラインド・ブレイク」や「ビッグ・ビル・ブルンジー」などのギタースタイルに辿り着くその中間点として彼のギタープレイを大いに研究したものだ その華麗と言ってもいい12弦ギターのプレイは今聴いてもちょっとうっとりするような響きがある そしてちょっと鼻にかかったメロウな歌声も好きだった

僕が聴いてた当時の彼の声は妙に甲高い感じがしたのだけど、どうもそれは新しく録音するときのレコードの回転数が間違っていたみたいで実際の声は下の曲の感じに近かったようだ 曲中で合の手を入れてるのは彼の妻だ 盲目のブルースマンにとってはどこへ行くのにも必ず手を引いてくれる付き添いが必要だったのでこのように奥さんが一緒に居てついでに一緒に歌ったりお客が払う「投げ銭」を誤魔化されないように見張る必要があったのだと思う

 

そうしてもうひとりは ブラインド・ウィリー・ジョンソン

ブラインド・ウィリー・ジョンスン Blind Willie Johnson
1897年に中部テキサス州マーリンの近郊で生まれました。その生涯について詳しいことは分かっていません、7歳の時に両親の夫婦喧嘩のトバッチリで洗剤が目に入り失明したと言われていますが、経緯のほどは不明です。当時の貧しい黒人家庭では、胎児期や幼少期の栄養不足でも起こり得ることです。葉巻の空き箱を加工してギターを作り、独学で奏法を習得した彼は、生計を立てるため弾き語りの辻説教師(ジャックレッグ・プリーチャー)としてダラスを中心に流して歩きました。やがてコロンビアにスカウトされ、1927年から1930年にかけて30曲を吹き込みました。しゃがれた暗い迫力ある歌声と、オープンD・チューニングを使ったナイフ・スライド・ギターは絶品で、「Mother’s Children」、「I Just Can’t Keep from Crying」、「Dark Was the Night」など後代に取り上げられた曲は多くあります。彼はずっと牧師として赤貧の流しを続け、1945年に急性肺炎で亡くなりました。自宅が火災に遭った後、濡れた床で寝ていて風邪を引き、それでも生活の糧を稼ぐために路上で歌い続けて倒れたのです。(以上;ラジカルビスケットより)

 

ここで最初にはっきり説明したいのは彼は「ブルースマン」ではないということだそのギターも歌い方も本当にブルースぽいのだが、彼は「ゴスペルシンガー」だったのだ
ただ、当時はブルースとゴスペルは曲の構成と歌詞が違うだけでその表現法はすごく近かった まるでトランプカードの表裏のようで、実際ブルースマンの多くはゴスペルも歌っていた(その逆はあまり無いのだが)

 

それではまるでデルタブルースのようなスタイルで歌われているこの曲を

どうだろう、このインパクトたっぷりの演奏・・・

このあとの時代にもブルースとゴスペルは互いに影響を与え合いながら発展してゆくのだよね

それでは次の曲は「ヴィム・ベンダーソン」が監督したブルースのドキュメンタリー映画「Soul of Man」に使われた「Dark Was The Night」この曲はアメリカNASAが打ち上げた探査衛星「ボイジャー」の中に積まれた地球の文化を紹介するための資料レコードの中に入れられて今も宇宙を旅しているそうだ ギターと唸り声だけのこの曲 いつかどこかの星のエイリアンたちがこれを聴くのだろうか

 

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ブルースギターの奏法として有名なものに「スライドギター」というものがある

 

 

これは左手の指にガラスや金属の管をはめて弦にあてる「ボトルネック奏法」と(写真はブッカ・ホワイト Bukkka White)

左手に金属や動物の骨、ナイフなどを挟んで弦にあてる「ラップ奏法」の大きく2つのやりかたがある(写真はブラックエイス Blackace)

 

流れとしてはしだいに「ボトルネック奏法」のほうが主流になっていく

それはギターを普通に抱えてスライドバーをはめてる以外の指でフレットを押えるというプレイが出来るからで「ロバート・ジョンソン」「マディー・ウォーターズ」「エルモア・ジェイムス」「アール・フッカー」など多くのギタリストがそのスタイルを用いている

それはその後ブルースの影響を受けた多くのロックギタリストたちにも受け継がれ今でもそのスタイルは多くのプレイヤーたちに使われている


 

一方、ギターを横に寝かせて弾くラップスタイルはどうなったのだろう・・・

続きは明日

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さて、ラップスタイルのスライドギターのほうはどうなっていったのか・・・

と言う前に実際昔のブルースマンたちはどうやってギターを弾いていたのか

たとえば「チャーリー・パットン」とか「ブラインド・ウィリー・ジョンソン」などはどうもボトルネックスタイルではなくギターを膝に置いたラップスタイルで弾いてたような演奏をしている

 

そして1930年代になるとそういったスタイルをはっきり持ったギタリストたちが次々に登場してきた

まずはロバート・ジョンソンやエルビス・プレスリーにまで影響を与えたグルースマン

ココモ・アーノルド Kokomo Arnold
本名はジェイムス・アーノルドです。1901年2月15日、ジョージア州アトランタを南に下ったラブジョイで生まれました。従兄弟のジェームズ・ウィッグスにギターを習いました。1919年から、製鋼所の仕事をしながら、バッファロー、ピッツバーグ、ゲイリーと住処を変え、1929年にシカゴへ出た時に、スカウトに見出されて、翌年の1930年にメンフィスで2曲を初録音しました。1934年から1938年までデッカの専属として多数の録音をしています。左利きの彼は、右手にボトルネックを持ち、ギターを膝の上に寝かせて演奏します。代表曲には「ミルク・カウ・ブルース」、「オールド・オリジナル・ココモ・ブルース」があります。1941年になると音楽業界から退き、製鉄所の仕事に戻りました。その後、1960年代初頭に再発見されましたが時流に乗ることは出来ませんでした。1968年に心臓麻痺で亡くなりました。(以上;ラジカルビスケットより)

 

かつては「メンフィス・ミニー」の夫でもあった
ケイシー・ビル・ウェルドン Casey Bill Weldon
メンフィス・ミニーの最初の夫で、本名はウェル・ウェルドンです。彼女より6歳下ということから推定すると、1909年の生まれです。アーカンソー州パインブラフ出身で没年は不明です。”Casey Bill”は”Kansas City”が訛って渾名になったものです。メンフィスで活動し、スライド・ギターを弾いていたことからメンフィス・ジャグ・バンドに加入し、1927年から28年の録音に参加しています。またビクターには自己名義でも吹き込んでいます。その後、シカゴに出てビッグ・ビル・ブルーンジー、ジャズ・ジラム、ウォッシュボード・サムらと共演し、ホウカム・ボーイズ、ウォッシュボード・リズム・キングズ、ブラウン・ボンバーズの一員としても録音を残しています。特に有名なのは1936年の「W.P.A Blues」で、ギターを膝の上に横置きにして演奏するスライド奏法が聞き所です。また、メンフィス・スリム、ビッグ・ビル・ブルーンジー、レイ・チャールズで有名な「ムーヴ・トゥ・アウトスカーツ・オヴ・タウン」の作者でもあります。1938年の録音以降の消息は不明です。(以上;ラジカルビスケットより)

 

そして僕が個人的に大好きな
オスカー・ウッズ Oscar Woods
900年頃にルイジアナ州シュリーヴポートに生まれたとされていますが、はっきりとはしません。座って膝の上に置いたギターの弦上でナイフを滑らせて弾くナイフ・スライド奏法の名手で、多彩なフレーズと躍動感のある音色を持っています。1930年と1932年にはエディ・フィッシャーと共にビクターへ4曲を吹き込みました。1936年に「ローン・ウルフ・ブルース」など3曲をデッカに、1937年、1938年にバディ・ウッズの名前でヴォカリオンに6曲、1940年に国会図書館へ4曲吹き込んでいます。1956年に故郷で亡くなりました。(以上;ラジカルビスケットより)

 

まだまだ居るのだが・・・

そしてじつはこういうギタリストたちにインスピレーションを与えたであろうギタースタイルが意外なところから出現していたのだ それは・・・

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出演するには?

 

 

 

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今からもう20年くらい前 僕は1枚のアルバムに出会った

それが今日紹介する

Hawaiian Steel Guitar Classics 1927 – 1938

これは戦前のハワイで録音された「ハワイアンギター」の傑作そして名手たちを紹介しているオムニバスアルバムで、その中でも

Sol Hoʻopiʻi(ソル・フーピーと読むのかな) というスーパーギタリストの演奏が入っている
From Wikipedia, the free encyclopedia

Sol Hoʻopiʻi
Sol Hoʻopiʻi.jpg
Background information
Birth name Solomon Hoʻopiʻi Kaʻaiʻai
Also known as Sol Hoʻopiʻi
Born 1902
Honolulu, Oahu, Hawaii
Died November 16, 1953
Seattle, Washington
Occupation(s) Live performer
Instruments Ukulele
Guitar
Steel guitar
Years active 1920–1953
Labels Decca Records
Brunswick Records
Associated acts Johnny Noble
The Novelty Trio
Aimee Semple McPherson
Notable instruments
Steel guitar

Sol Hoʻopiʻi (Hawaiian pronunciation: [ˌhoʔoˈpiʔi]) (1902–16 November 1953) was born Solomon Hoʻopiʻi Kaʻaiʻai in Honolulu, Hawaii. He was a Native Hawaiian guitarist, claimed by many as the all-time best lap steel guitar virtuoso, and he is one of the most famous original Hawaiian steel guitarists, along with Joseph Kekuku, Frank Ferera, Sam Ku West and “King” Bennie Nawahi.

「翻訳ツールで訳すと」

Sol Ho’opi’i(ハワイ語発音:[ʔhoʔopiʔi])(1953年11月1906-16)は、ハワイのホノルルでソロモン・ホオピイ・カイアイが生まれました。 彼はネイティブハワイのギタリストであり、多くの人が最高のラップスチールギターの巨匠として主張しています。彼はJoseph Kekuku、Frank Ferera、Sam Ku West、 “King” Bennieと共に最も有名なハワイアンスチールギタリストの一人です。 Nawahi。

このアルバムの中では(1)(14)が彼のプレイ しかし、ほかのプレイヤーたちも本当にスゴい とにかく「これをあのスチールバーで押さえながら弾いてるの?」と首を傾げたくなるような超絶プレイばかりなのだ

そしてぜひ聴いてほしいのは4曲目の 「St’Louis Blues」(0:55~12:44)

こういうプレイがどこかでブルースマンたちにも伝わっていったんじゃないかな

このアコースティックのスチール(文字通り鉄の)ギターは1940年ぐらいになるとエレクトリックのものに取って代わられて今のお馴染みのあのスチールギターの音に代わるのだけど

その後もアコースティックの音を追及し続けるギタリストたちがいる その話は明日

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現代のギタリストでハワイアンラップスタイルを受け継ぐもの 2人紹介しよう まずは

 

デヴィッド・リンドレー David Lindley

1944年3月21日、カルフォルニア州サン・マリノで生まれました。
ジャクソン・ブラウンの「孤独のランナー」で、夕日に棚引く農家の煙突の煙みたいなスライド・ギターを披露しています。元はサイケデリック・フォーク・バンドのカレイドスコープの一員です。(以上:ラジカルビスケットより)
この人はだいぶ前にはよくライ・クーダーと一緒にやってたっけ ここでは「ワイゼンボーン」というハワイアンのギタリストたちがよく使ってたアコースティックギターを弾いている

 

もう1人は「ミスター ナショナルギター」と言われた

 

ボブ・ブロズマン Bob Brozman

1954に年ニューヨークで生まれました。17歳の時にチャーリー・パットンを聞いて感銘を受けました。1972年にワシントン大学に入学し、卒業論文は『チャーリー・パットンとトミー・ジョンスンの相互影響』です。
ナショナル・ギターの蒐集家としても有名で、ギター・ワークショップを開催しています。また、レコーディングやライヴ活動も行なっています。
2013年4月23日にカルフォルニア州サンタクルズの自宅で死去しました。4月20日まで来日公演があり、帰国して突然のことでした。(以上:ラジカルビスケットより)
この人のナショナルスティールギターに対する拘りはもう尋常じゃないくらい とにかくナショナルしか弾かない おまけにやりすぎるくらいの超絶テクニック
ブルースものが多いがハワイアンもかなりやっていた

さてさて、次回はまたブルースに戻りますよ

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