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Channel: ジミー矢島の日記 | 高円寺ライブハウス ペンギンハウス
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僕のブルースマン列伝 8

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さて、今日は僕の最も敬愛するそしてもっとも影響を受けたブルースマン

ビッグ・ビル・ブルーンジー Big Bill Broonzy  だ

「ビッグ・ビル」は1893年または1898年6月26日(正確な年は不明)、ミシシッピ州スコット郡にウィリアム・リー・コンリー・ブルーンジー(William Lee Conley Broonzy)として生まれた ブルーンジーは1924年にミシシッピ州を離れてシカゴに到着し、そこで彼にギターを教えた(彼は以前はフィドル奏者であった)パパ・チャーリー・ジャクソンw:Papa Charlie Jackson)と出会った。

ブルーンジーは最初にソロのシンガーとして1929年に録音し、そのスタイルで録音を続けた。1936年彼は、トラップス(ドラムス)とアコースティック・ベースと、ひとつ以上のメロディ楽器(ホーンもしくはハーモニカ)で構成された小さなグループを使った、最初のブルース歌手の一人となった。これで録音されたは、通常は「ビッグ・ビルと彼のシカゴ・ファイブ(Big Bill and his Chicago Five)」名義でリリースされた。当時、ブルーンジーはARCレコーズ系列のより安いレーベル(メロトーンパーフェクト・レコーズなど)で録音していた。1939年、ARCがCBSに吸収されて、ブルーンジーはヴォカリオン(後のオーケー)に現れ、1945年以降はコロンビア・レコーズに移った。彼の最も知られた曲のひとつ、「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」はこの頃に書かれた この時期、ブルーンジーは通常サウスサイドのクラブで演奏し、また1930年代の間はメンフィス・ミニー(w:Memphis Minnie)と共にツアーをした。1948年にブルーンジーはマーキュリー・レコーズのレーベルとの契約を結ぶ機会に恵まれ、そこで彼は1951年にレコードを制作した。その後、ブルーンジーはフォーク・ブルースのルーツに戻り、1956年初めまでヨーロッパ中を広範囲にわたってツアーし、そして録音した。さらに英国で紹介されたことが、彼の知名度を大きくアップさせた。ブルーンジーの演奏を見た英国の聴衆は、彼の演奏技術に驚嘆の声をあげたと伝えられている。彼はシカゴ・ブルースのスタイルのパイオニアであり、1942年の初めにはエレクトリック楽器を導入していたにもかかわらず、彼の新しい白人の観衆たちは、彼にアコースティック・ギター一本だけで初期の曲を演奏するのを聞きたがり、それらの曲がより「正真正銘」であると考えられた。ブルーンジーは1956年にシカゴに戻り、演奏を続けた彼は1958年に咽頭癌で亡くなり、イリノイ州ブルーアイランドリンカーン墓地に埋葬された[4]。彼のフォーク・ブルース時代の間、彼はピート・シーガーw:Pete Seeger)、ソニー・テリーw:Sonny Terry)、ブラウニー・マギーw:Brownie McGhee)、レッドベリーらと録音した。彼の初期のARC/CBSでの録音物に相当する曲は、CBSソニーの名曲集で再リリースされている。同じく、他の初期の録音は、後期のヨーロッパとシカゴでの1950年代の録音物と同様に、ブルース再発レーベルにまとめられている。ブルーンジーは彼の1950年代初期の同時代の他の人のように華々しいエレクトリックのギタリストでは決してなかったので、彼はその時代の他の人ほどには有名ではなく、また1960年代の英国の「ブルース・リバイバル」の時期にも広範囲にわたってカバーされなかった。しかしながら、デレク・アンド・ザ・ドミノスが彼の曲「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」を、アルバム「いとしのレイラ(Layla and Other Assorted Love Songs)」で取り上げたことで多少の人気を得た。彼はアコースティックギター奏者として称賛されていて、マディ・ウォーターズメンフィス・スリムw:Memphis Slim)、レイ・デイヴィスらの主なインスピレーションの源であった 2007年9月のQ-Magazineでは、ローリング・ストーンズロン・ウッドが、ギター音楽の中で彼のお気に入りがブルーンジーの曲であると言及された。その曲は「ギター・シャッフル」で、「それは俺が演奏を学んだ最初の曲のひとつだけど、今でもそれを正しく演奏できないんだ」と語った。

・・・とWikipediaからの抜粋をかなり省略してもこの長さだ

とにかく戦前~戦後にわたって約30年間近い長い活動暦を持っていたブルースマンだ

 

ただ、僕は正直言って戦後「再発見」(これも?なのだが)された彼の演奏は好きではない

まあ⇒これ なんかはクラプトンもカバーした有名な曲だけど、少し昔のイメージが出てるかな

それは当時の特にヨ-ロッパの白人たちの好みを取り入れて「フォークブルース」っぽく演奏していた”わざとらしさ”が鼻につくからで、ここだけは中村とうようと話が合う(笑)

 

とにかく戦前、それも30年代に吹き込まれた彼の膨大な録音はほとんだ”駄作”がないんじゃないかというくらい素晴らしい

初期の傑作 Long Tall Mama まあ聴いてよ! ・・・ね、いいでしょ!

彼のブラインド・ブレイクを下敷きにしながらそれに独特のねちっこいスィンギーなギターフレーズ それに洗練されてるけど泥臭い歌い方が本当に大好きでずいぶんとお手本にさせてもらった

ちなみにそれまでソロがメインだった戦前のシカゴブルースにドラム、ベース、ピアノ、ホーンなどのバンドスタイルを積極的に取り入れて後の「シカゴ・ブルース」の基盤を作ったのにもビルの果たした功績は大きい

では、最後に⇒この曲を

 

 



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