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Channel: ジミー矢島の日記 | 高円寺ライブハウス ペンギンハウス
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僕のブルースマン列伝 30

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さあ、今回を入れてあと二回になったこのシリーズ 今日は・・・

 

僕は今まで生で観ておいて本当によかったと思うライブが2つあるひばり

そのひとつは「新宿こま劇場」で観た 美空ひばり・・・誘われて行く前はそれほど関心もなかったのだが・・・もう観たあとはそのすごさに本当に感動したのだ! まあ、この話はいずれするとして

もう一つ、もう一人・・・それはブルースマンの中でも一段と大きな輝きを持っていた不世出のブルースマン

ライトニン・ホプキンス Lightnin’ Hopkins  だ!ホプキ

 

1912年3月15日1982年1月30日)はアメリカブルースミュージシャン。本名はサム・ジョン・ホプキンスSam John Hopkins)。

1912年テキサス州センターヴィル生まれ。少年時代の1922年に、ブラインド・レモン・ジェファーソンに出会いギターを教わる。1927年にはいとこであるテキサス・アレクサンダーと共に テキサスにあるレインボー・シアターで演奏する。 レコードデビュー当時、よくコンビで演奏をしていたピアニストサンダー・スミスのサンダー(雷)にちなんで自らをライトニン(稲妻)と名乗るようになる。
黒いサングラスに葉巻をくわえたスタイルで演奏し、アメリカン・フォーク・ブルース・フェステイバルに出演したり、マンス・リプスカムと共演したりした。

初録音は1946年で、1959年に白人により再発見され、ようやく世界にその「ライトニン節」を轟かせる事になる。 アラジン・レコードから初のシングル「Katie Mae Blues」をリリースし、ヒットを記録。 その後もR&Bチャートにランク・インするような曲を次々にリリースし、50年頃は「ハロー・セントラル」がビルボードにチャートインするほど大変な人気ぶりで、カントリー・ブルース界でも極めて稀な存在となり、戦争を題材にした歌などもリリースする。

1930年代は放浪していることが多くヒューストンに移り住んだ後、ジューク・ジョイントで演奏やストリートでブルースを歌っていた。

ケンカが原因で、刑務所送りになったという辛い過去がある。 従事した仕事は架橋工事で、宿舎では寝る時も足を鎖で繋がれ、翌朝の食事の時に外されるなど、過酷な労働・生活が続いた。 彼の音楽には人生観がにじみ出て、ある種の安らぎ、人生の哀切や達観、希望が満ち溢れた音に、多くの人々が魅了されていった。

ライブではアメリカ各地の大学・ヨーロッパ等、どこも超満員だった。 語彙が豊富で、頭の回転の早い彼による心の奥底を探るような歌詞は、彼自身の気分によって抱腹絶倒の内容になることも、痛ましく荒涼とした内容になることもあった。彼はその場の雰囲気に合わせて即興で歌詞を作ってしまうことでも有名で、そのためライヴ・レコーディングでは、しばしば予想を超える内容になる等、エピソードには事欠かない。

1960年代の後半、ライトニンのホームタウンであるテキサス州ヒューストンで撮られたドキュメンタリー・フィルム『ライトニン・ホプキンスのブルース人生』には、飾らない素顔や生活ぶりが記録されている。

生涯に百枚以上のアルバムをリリースしていると言われ、現在もブルース・ファンに人気の高いギタリストである。ブルースの歴史を研究する上で、欠かす事の出来ない存在である。

代表作は、『アラジン・レコーディングス』(1946-1948) 『ライトニン・ホプキンス』(1959) 『モジョ・ハンド』(1960) 『ライトニン・ストライクス』(1962) 『テキサス・ブルースマン』(1962)など多数。

1978年に最初で最後の日本公演を行っている。 1982年により死亡。 以上「Wikipedia」より

 

そう、この1978年の最初で最後の日本公演を僕は中野サンプラザに観に行ったのだ

ライトニンが日本に来る・・・こんな凄いことが本当に実現するとは・・・飛行機が大嫌いな彼を海を越えて日本にまで連れてくるのは本当に大変だったそうだ 何度も「俺はやっぱり行かない」とゴネるのを必死になだめて何とか連れてきたそうだ

 

さて、78年というと日本での一時的なブルースブームもすっかり下火になっていて、この時のサンプラザも一階席がまあまあ埋まるという程度(3年前の日比谷は満席だったのに)だった

この日はライトニンの前に前座が出た 前座と言うのはちょっとかわいそうな気もするが・・・「フォークブルース」ファンの間で60年代には絶大な人気を博した二人組み ブラウニー・マギー&サニー・テリーである この名前としてはあまりにビッグな二人なんだが、前回のビッグ・ジョー・ウィリアムス同様すでに過去のものとなった芸能をまだ聴き手がいるということでなんとか続けている年老いた芸人の域を出ていなかったマギー

ただ、最初に紹介されて二人が出てくるときブラウニーは大きく片足を引きずりながら、サニーはスタッフに手を引かれながら登場した サニー・テリーが盲目なのは先刻ご承知だったが、ブラウニー・マギーが小児マヒだというのはなんとなく知ってたが様子ではかなり重症のよう

そういえば昔のアメリカ南部の黒人のうち身体に障害のあったものはミュージシャンか芸人になるくらいしか生きるすべがなかった・・・そんなエピソードを聞いたことがあるが彼らはまさにそういう人たちだったのだね

 

彼等がなぜライトニンのオープニングアクトに選ばれたか・・・僕の想像だがそれは確か60年代にファースト発表されたアルバム「FIRST MEETING OF BLUSS GIANTS」があったからじゃないかな

このアルバムにはライトニン、ブラウニー&サニーそしてビッグ・ジョーウィリアムスが参加して4人でセッション的に演奏しているのだが、この中でライトニンとブラウニーが即興で掛けあいをする曲があってそれがものすごくスリリングで当時はまだ絶好調だった両者の気迫とプレイが武術の果し合いのようで面白かった もしかすると彼らを呼んだ主催者側はそういうのを期待していたのかも知れなかった

しかし、年月と老化というものは残酷だ 年老いてすっかり往年の輝きを失った二人 それにお互いが実はすごく仲が悪い・・・そういうことも影響していたのかも知れない この二人の演奏を観ていて「大丈夫だろうか・・・」 と肝心のライトニンの演奏まで不安の暗雲が客席にいた僕らを覆いはじめた

 

そしてしばらくのインターバルを挟んでいよいよ御大の登場だ まずバックアップメンバーがステージに立つ・・・おや、僕らはちょっとした違和感を感じた ドラムは黒人だがベースはアジア系・・・たぶん日本人・・・それもなんだかブルースとは縁のなさそうなロン毛の若者・・・ちょっと不安がよぎる

 

そしてMCの紹介・・・「ラ~イトニン・ホプキ~ンス!」とか言っただろうか

その声にあわせてステージ上手からライトニンが登場する

その瞬間に僕らは一撃でやられてしまった

 

ものすごいオーラというか”気”が彼の身体から吹き上がっていた ただならぬ存在感・・・す、すごい!

その格好だが、オレンジ色のスーツその胸元にはスパンコールがキラキラ光ってる 両手晩年のほぼすべての指には大きな指輪が・・・そしておなじみのサングラスをかけてステージ中央までスタスタと軽い足取りで進みマイクに向かいニヤっと笑う うわ~!ライトニンだ あのビデオでも散々みていた不適な笑い そして印象的なあのだみ声で一言二言なにか喋るといきなりギターを「ンジャッ!」と弾き曲が始まる おお!いきなり「モジョハンド」ライトニンのおはこ中のオハコだあ!

もうもう僕はその場に自分がいるだけで幸福な気分になっていた あの伝説は本当だった ダウンホームブルースマンの中でも抜きん出て泥臭くて魅力的な「ザ・ブルースマン」ライトニン・ホプキンスは本当に凄かったのだ

演奏中もたとえば照明の光をギターに反射させて客席に向けたり、観客の女性(外国人だった)をCCF20140429_00000ちょっとエッチなジョークでからかったり(多分)客席とのコールアンドレスポンスを本当にすごく大事にしているのがよくわかる

わりと新しい当時のダンスナンバーをやったりとまだまだ色気を失ってない貪欲なおっさんの面をたくさん見せてくれた

急きょ集められたらしいバックはヒドかったがそれでもライトニンの凄さはそんなものでほとんど薄められることはなかった

さすがに66歳という年齢はあの若かった頃のドギツく光るようなブラックネスにやや艶が無くなったような感じは少しはあったが、それでもまだまだ輝き続けるため「燃料」はたっぷりあるように思った そういえば亡くなった高田渡が言ってたのを思い出した「ライトニンっていつも着てるものがお洒落なんだよな、あれっていつも”女”がまわりにいたんだと思うよ・・・」って

 

 

 

そのわずか4年後に亡くなってしまった彼の演奏をもう二度と生では観ることはできないが、あれから36年も経った今でもそろそろ当時の彼の年齢に近付きつつあるかつてのブルースファン青年の記憶にはいまだに鮮明にあの姿が焼きついている

 

もう2度と・・・決して出てこない一人の素晴らしきブルースマンが

 

では最後に彼のごく初期の映像と 晩年の映像をごらん下さい

 

そして、ライトニンもやっていた「BABY PLEASE DON’T GO」 仲田修子バージョンです

いよいよ次回は 最終回・・・さて、誰が・・・

 

 

 


僕のブルースマン列伝 31

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さて、戦前~戦後と色々なブルースマンを僕のまったく個人的な好みとチョイスで紹介してきた「僕のブルースマン列伝」 いちおう締めくくりとして今回の最終回 この人を紹介するのはあまりに”ベタ”過ぎるので「なんだよ~」と言われそうだがやはり紹介しないわけにはいかない事情があるのだ それは

 

B.B.キング B. B. King

本名Riley B. King 、ビー・ビー・キング、1925年9月16日 – )は、アメリカ合衆国ブルースギタきんぐリスト、歌手作曲家1950年代から現在まで常に第一線で活躍してきたブルース界の巨人。

1925年9月16日ミシシッピ州北西部のイッタベーナのプランテーションに生まれる[2]。幼少の頃は小作人として働く。その後ギターを手にし、幼くして頭角を現し始める。T-ボーン・ウォーカーロニー・ジョンソンと言ったギタリストの音楽だけではなく、ゴスペル音楽にも触れていたという。

1943年に州内のインディアノーラに移住し、その3ヵ月後にはテネシー州メンフィスに移り住む。キングはそこで、いとこのブッカ・ホワイトに教わりながらギター・テクニックを磨いていく。やがて彼は、メンフィスのラジオ局WDIAでDJをするようになった。そのときに番組のスポンサーだった飲料の名前から「The Pepticon Boy」と名乗っていた[3]のが後に「Beale Street Blues Boy」となり、略して「Blues Boy」と呼ばれるようになった。これのさらなる略称が「B.B.」であり、名前の由来である[4]1949年、ナッシュビルのレーベル、ブレット・レコードに4曲を吹き込み、レコード・デビューを果たやんぐした。翌年には、ロサンゼルスのモダン/RPMと契約する[4]1951年末にシングル「3 O’clock Blues」がR&Bチャートの1位を記録[4]。これを機に以降、数多くのヒットを世に送り出す存在となった。1964年には、後に多くのアーティストが取り上げるスタンダード・ナンバーとなった「Rock Me Baby」を発表。1969年に発表された「Thrill Is Gone」のリメイク(原曲はロイ・ホーキンス)では翌年のグラミー賞を受賞した[5]。1970年代に入っても彼の活躍は続き、1951年から1985年までの間に実に74回もビルボードのR&Bチャートに曲を送り込んでいる。

1980年代から2000年までの間は、アルバムのリリースは少なくなる一方、テレビのショーへの出演やライブへの出演が多くなり、特にライブの回数は年に300回にも達していたという[4]1988年にはU2と「When Love Comes To Town」で共演、同曲は翌年にはシングルとしてヒットした。1993年には多くのブルース・ミュージシャンをゲストに迎えたアルバム『Blues Summit』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞[5]1997年のアルバム『Deuces Wild』にはヴァン・モリソンドクター・ジョンローリング・ストーンズウィリー・ネルソン等、B.B.キングを慕うアーティストが参加。1998年には長いキャリアにおいて初のセルフ・プロデュース作品『Blues on the Bayou』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞[5]2000年にはエリック・クラプトンとのアルバム『Riding With the King』を製作した。また、1998年に公開された映画『ブルース・ブラザース2000』では、クラプトンと共演している。

1987年ロックの殿堂入りを果たし[2]、授賞式にはスティングがプレゼンターとして出向いた。また1991年には、米国立芸術基金(NEA)の選定するNational Heritage Fellowship(日本の人間国宝に相当)にも選ばれている[6]

 

とにかくブルースをまったく知らない人でも名前ぐらいは聞いたことがあるだろう 有名といえばこbbれほど有名なブルースマンは、成功したといえばこれだけ成功したブルースメンはいないだろう

なにしろ「アトランタオリンピック」の閉会式からオバマ大統領の就任記念パーティーでホワイトハウスで演奏までしたブルースマンて・・・BB以外には考えられないよね

 

だからどちらかというと「マイナー」なものが好きな僕は若い頃は全然彼をいいとは思えなかった

あのまるでラスベガスの芸人が着るような豪華な衣装になんだか持って回ったようなクドい仕草

思わせぶりな派手なギタープレイと表情・・・「クサいよなあ」・・・イマイチ受け付けなかったのだ

ただ、あの当時の音楽評論家のトップにいた中村とうようが「あんなのはブルースじゃない」という意見には賛成できなかった 確かにわざとらしいんだが・・・ブルースじゃないとは言えないんじゃないかな・・・と

その抜けきらない疑問を晴らしてくれる一枚のアルバムにあるとき僕は出会った それが1965年にリーガル発表されてた「Live at the Regal」だった

当時、最も脂が乗りきっていてしかも黒人コミュニティーから絶大な人気を得ていた彼がシカゴにあった黒人専用会場「リーガル劇場」でやった演奏を収録したライブ盤だ

何が僕を動かしたか・・・それはオープニング、司会者が「Ladys and Gentleman ナントカカントカ・・」とハイテンションな声で呼びかけそして最後に「ビー~ビー~・キ~ング!」と叫ぶ

バンドが一斉に早めのシャッフルのイントロを演奏し始める BBが登場する すると客席からものすごい歓声が沸き起こる それもほとんどは女性の「キャ~~ッ!」という悲鳴のような声 そう、まるでビートルズのコンサートのような声が巻き上がったのだ

そして張りのある艶のある声でBBが歌いだす 「Everyday! E~veryday I have the Blues!」

もう客席は興奮のるつぼ・・・こんな状態が最後までずっと続く

そうだったんだ ソウルのキング ジェームス・ブラウンと同じく黒人大衆音楽のブルースの頂点に立つ男は間違いなく本物のそして最高のブルースマンだったのだ

次の曲を聴いてほしい このライブ盤に収録されている 「How Blue Can You Get」という曲だ

この曲は付き合ってた女に別れ話を切り出された男がうろたえて必死に思い留まらせようとするというような内容なんだが、その中にこんなやりとりが出てくる 後半ブレイクを入れながらトーキングスタイルで歌われてる部分だ

「お前には豪華なディナーをごちそうしただろう」「なによあんなの”スナック”じゃん」

「素晴らしい家を建ててやったじゃないか」「ただの掘っ立て小屋でしょ~」

などというやりとりがあって最後に男が

「お前には7人の子供を作ってあげたろう」と言うと女は「全~部返してやるわよ~!」と吐き捨てる

そのセリフの瞬間客席の女性ファンからもう「ギャ~~~ッ!!」という雄たけび、いや雌たけびが興る・・・これなんだよ これがブルースを支えてきた力なんだと思う

 

そしてもうひとつ、ぜひ話しておきたいことがある

それは今から10数年前のことだ

 

当時僕は吉祥寺で「からまつ亭」という蕎麦屋を営業していた 八ヶ岳からそば粉も水も持ってきimagesCALVWLG8て手打ちで、季節によっては山菜やキノコなど山の恵みを採ってきてメニューに出す そういうコンセプトで開いた店だった

ところがオープンして最初の2~3年ぐらいまではまったくお客が来なかった 毎月毎月赤字・・・

家族や親しい友人と離れて孤軍奮闘で毎日そば粉にまみれながら必死に頑張ったが一向に売り上げは良くならない・・・失敗だったか

僕は途方にくれた 毎日お客の居ない店の厨房にうずくまり暗いことばかり考えるようになっていた

店のすぐ近くを中央線が通っていた 当時、やたらと鉄道自殺が頻発していてほとんど毎日のように電車が止まったり遅れたりしていた

そのうち僕もなんとなく心の隅で「そうか・・・そうしたら楽になれるのか」などと考えるようにまでなっていた 希望の光がまったく見えなかった

 

そのときだ

たまたまその日店でBGMでBBの「Blues on the Bayou」というアルバムがかかっていた(僕の店は「ブルースが流れる蕎麦屋」だったのだ)

なんという曲だったのかは思い出せない スロウなバラードだったと思う

歌の歌詞の意味もわからなかった ただ、それを聴いてたらBBがこんなことを言ってるように思えたんだ

「あんたはバカさ どうしようもないバカさ でも・・・そんなあんただけど・・・生きてていいんだよ」

その言葉が心に浮かんだ瞬間・・・僕の中からブルースが吹き飛んだのだ

本当に「Blow My Blues Away」になったのだ

それから僕は思いなおしてまた一生懸命がんばった 3年を過ぎた頃から、少しずつだが店が軌道に乗りはじめた

 

そう、もしかすると今僕がこうやって生きてこんなことを書いていられるのはあの時のB B KINGのお陰かも・・・いやBLUESのお陰なのかも知れない

あの大震災の直後、心が折れそうになった僕を立ちなおらせたのは僕自身が歌うブルースだったビービー

 

みんな、どうかこの本等に素晴らしい音楽に少しでも近付いてもらえたら・・・それが僕の願いだ

今年でじつに89歳になるBBはだいぶ体力の衰えはあるがいまだに現役で演奏している

まだまだ元気でがんばってほしい

彼が亡くなったら・・・そのとき・・・アメリカの黒人のブルースの歴史が終わる

僕はそう思ってるのだ

 

あとがき 多くの方はご存知と思うが2015年5月14日 ついにこのブルース界の巨人が天に召されてしまいました この記事を書いた一年後・・・

その時は「悲しい」というより「ついにこの日が来た」というなんとも粛々とした気持ちになりました

ぼくが18歳のときに初めて出会ってそして今も続けているブルース BBはじめ沢山のブルースマンから音楽だけでなく生き様まで学んできた・・・これからも続けていくだろうこの音楽

多分20世紀で一番影響力のあっただろう音楽・・・これから僕らがどこまで行けるか

それは神のみぞ知る・・・かな  最後に僕らが演奏する「EVERYDAY I HAVE THE BLUES」をお聴き下さい ありがとうございました

 

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僕の吉祥寺話 1

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これからお伝えするこの話は僕ジミー矢島によって2014年の正月からスタートした連載です

今またここに発表することにしまして、当時の文章はほとんどそのままにしますが若干の訂正や追加も入れてまたレイアウトを変えたり新しい写真や動画も入れていこうと思います それでは スタートします

 

 

吉祥寺・・・高円寺からJRでわずか4つ目の駅、そして僕が生まれた街だ だけど僕は滅多なことでは、よほど用事があるとき以外に吉祥寺に行く事はほとんどない

ちょっと前のアンケートでは「日本で一番住みたい街」という結果が出たらしいが(その後2016年の調査で恵比寿に抜かれて2位に転落したらしい)・・・正直僕はこの街が”苦手”いやもっとはっきり言えば嫌いなのだ それには色々な訳もあるのだが

1952年12月、僕は武蔵野市に在るある病院で生まれた・・・らしい もちろん本人には記憶があるわけない 僕の親父が死んだときに戸籍を調べたら僕の両親が「入籍」したのがその年の8月・・・てことは「できちゃった婚!?」ははは

 

僕が小さい頃、家の周りの風景は今の吉祥寺とはまるで違っていた あちこちに畑があったし、うっそうとした林や藪があちこちに 家のすぐ裏が地主で、さすがに茅葺ではなかったが典型的な農家の佇まい、家の軒下には農具がぶらさがっていて近所の畑には「肥溜め」もあった

道はほとんどが砂利道で夜になると街灯もほとんどなく外は暗くてけっこう恐ろしかった

 

 

・・・で、吉祥寺の街はってえと当時中央線はまだ高架になってなくて吉祥寺駅もまだ木造のくたびれたような建物 接続する「井の頭線」へは階段を登って降りて・・・という今では地方の駅で見られるような風景だった もちろんアーケードなんてなくって今「サンロード」と呼ばれてる駅前の商店街が当時はバス通りで狭い道をバスが通っていてしかも舗装路じゃなかったので雨の日なんかはあちこちに水溜りができてバスが跳ね上げた泥水を避けながら歩く・・・もちろん歩道なんかなかったのだ

駅前には八百屋、魚屋、果物屋、総菜屋、洋品店などがならびお洒落な店なんてほとんどない 勿論PARCOなんてなかったしデパートもなかった 不思議なことに北口のすぐ前に広がる「ハモニカ横丁」だけは当時からほとんど変わっていない ただ、だいぶ後になって知ったのだがこれらの2~3坪くらいの小さな店には大体「二階」があって梯子で上れるようになってるのだがそれがかつての「青線」の名残なんだそうだ

そういえば映画「三丁目の夕陽」を見ていてギモンに思うのがあれだけ当時の日本の東京の風景や生活をリアルに再現しているのになぜか「乞食」と「傷痍軍人」が一切出てこない これって戦後史の”ダークサイド”になるからなのかなあ・・・当時僕が少年の頃街に出ると必ずこれらの人々が居た 「お乞食さん」と言われていた人々が街の角に座っていたりまた真っ白な軍服を着て脚や腕に義足義手をつけたあるいは盲目の元軍人らしき人たちがアコーディオンやハーモニカを鳴らしながら「ここは~お国を何百里~~♪」と軍歌を歌っては施しを受けている風景は日常の中にごく普通にあった

 

とにかく当時の吉祥寺はうらぶれて埃っぽくて垢抜けなくてわびしくてそのくせ妙にパワフルな街だった

 

街の話から僕の周りの話に変えよう 実家は小さな電気店をやっていた 最初のうちは店にテレビや洗濯機、冷蔵庫などを置いていわゆる「家電店」として営業していたのだが当時はしょっちゅう泥棒に入られた 夜中のうちにドアを破って一切合財持っていってしまう・・・こういう被害が3~4度あってからは家電販売を止めて電気工事だけに商売変えした 家の正面は税務署その隣が小学校だった 家が学校の目の前だったので朝のチャイムが鳴ってから家を出てもなんとか間に合う・・・というわけで僕は”遅刻の常習犯”だった

 

学年は3クラス 1クラスが30人ぐらい 僕の年代はちょうど戦後のベビーブームが終わった直後だったのでまあまあのんびりした人数だった ただ、その小学校に通う児童たちには本当に色々な家庭環境があった 僕の家から中央線の線路を渡ってすぐ先に大きな木造二階建ての建物が三棟ほど並んだ団地のような場所があった そこは「引き揚げ者寮」と呼ばれていて当時の僕にはその意味がよくわからなかったのだが、あとでいわゆる満州など大陸から終戦後引き揚げてきて家の無い人々を収容していた施設だということを知った その建物は本当に粗末なもので、中に入ると薄暗く汚れていてなんとも言えない独特の臭いがした

廊下には共同の水場やトイレや調理場などがあり、それぞれの部屋は大体一世帯あたり10畳くらいの広さの中に三世代・・・6~7人が暮らしているというような状況だった(右写真は違う建物だがほぼこんな感じだった) そこから僕と同じ小学校に通う児童もいて僕の同級生にヨネモトという子がいた 彼はいつもツギのあたったような粗末な服を着ていて髪はボサボサ・・・内気で大人しい子だった 当時の小学校には月々の給食費が払えない子や「家の事情」で遠足に参加できない子なども何人かは必ずいた そうかと思えばそのまったく逆もあって、同じ同級生で家の門から玄関まで数10メートルはある、部屋数がいくつあるのかわからないぐらいのお屋敷に住んでいて帰りはいつも「お手伝いさん」が迎えに来る・・・そんな家庭の子供もいた

 

その頃から僕は「世の中はなんて不公平なんだろう」と思っていて、図書館で借りて読んだオスカー・ワイルドの「幸福の王子」という本を読んで泣いたりしていたのだが・・・そんな環境のあった吉祥寺にはいい思い出がほとんどなかった

そんな少年時代を過ごしていた僕の周りはあの「東京オリンピック」あたりを境に劇的に変化しはじめる その話は・・・続く

 

 

僕の吉祥寺話  2

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さて、世の中は1964年の東京オリンピックあたりで日本の経済成長に加速がつき「もはや戦後ではない」などとまだ沖縄がアメリカの統治下にあるのにそんな不遜なことを言う首相も居たりして日本全体が次第にお祭りのようなバカ騒ぎの時代に飲み込まれていった

 

 

 

吉祥寺の街も初めての大型ショッピングビル「名店会館」のオープンなどから(はじめてエレベーター、エスカレーターがあるビルで屋上には小さな遊園地が・・・地元の不良少年少女のちょっとした溜まり場になっていた)徐々に街全体に近代化と都市化が進んでいた

僕が中学3年のときに中央線が高架化 この時期の変化はすごいものがあった

注;名店会館はのちに取り壊され跡地に現在は「東急デパート」がある

 

風俗や文化の面ではビートルズの来日もあったりして「グループサウンズ」にはじまった「若者文化」なるものがむくむくとキノコのように発生しはじめていて、僕もその渦に飲みこまれないわけにはいかなかった(写真はザ・スパイダーズ)

 

その「天啓」のような出来事はある晩・・・とつぜんやってきた

 

それは1967年の12月・・・当時中学3年生の僕は夜な夜な「受験勉強」・・・と言いながら実際はラジオで「深夜放送」を聞くのを楽しみに机にかじりついていた 当時のラジオの深夜放送では「パックイン・ミュージック」「オールナイト・ニッポン」「セイ・ヤング」という3つの番組が人気を分けていて 今は話題の人になってしまった若き日の「みのもんた」なんかがパーソナリティーをやっていた 僕はナチ&チャコの「パックイン」が一番のお気に入りだったが、当時名DJと言われた糸居五郎(右写真)の「オールナイト」は面白い音楽をかけてくれるのでよく聴いていた まだ当時は自分で音楽をやるなんてみじんにも思ってなかったのだが

 

ある晩・・・どの番組かは覚えていないんだがDJが「ちょっと面白い曲があります」と言ってかけた曲・・・なんだか妙に甲高いギターの音にあわせて回転数を間違えたような(当時のレコードプレイヤーは33回転と45回転があって切り替えて使えた)声で始まった歌それは「オラは死んじまったダ~♪ オラは死んじまったダ~♪」というなんともばかげて不思議な歌・・・それが「フォーククルセダーズ」の「帰ってきたヨッパライ」だったのだ

その曲が全国に流された直後、あっちこちからすさまじいリクエストがあったようで結局その番組中でその曲が4~5回はかけられた

 

そのなんとも不思議な曲を作った彼らは一躍時の人となった そして「アングラフォーク」なるものが突然社会の表舞台ににょきにょきと筍みたいに出始めたのだ

これは今までの「音楽」とは何かが違う!・・・まだ少年で音楽にはそれほど興味のなかった矢島少年も漠然とそんなことを考えていた

そのあともそういった「ブーム」みたいなものに乗っかって色々な歌手が登場した 高石知也、岡林信康、中川五郎・・・などなど なかにはどう見ても「スパム」みたいな連中も居たがそういうものはすぐに消えていった 残ったものはやはり持ってる力が違ってた 当時はまだ70年安保の前・・・若者のパワーが「大爆発」をする季節の少し前だったが、なにやらタイヘンな時代が来そうな予感はあちこちでもう芽生えはじめていた

 

そして音楽にはほとんど興味のなかった僕がついにギターを手にする日が来るのだが・・・

 

その話はこの次に・・・続く

 

 

僕の吉祥寺話 3

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高校時代・・・その頃は僕にも社会にも大きな変化と事件の時代だった

学校方の帰りのバスの中で「三億円事件」の話を聞いた 「よど号ハイジャック事件」「三菱重工爆破事件」「三里塚闘争」「新宿騒乱事件」「あさま山荘事件」などなど・・・ほぼ毎日が重大ニュースとハプニングで埋め尽くされていた (映像は「あさま山荘事件」)

その中、社会の大きな動きに刺激され僕もついにギターを手に・・・いやいや、それが動機ではない(笑)

 

動機は実に単純で卑しいものだった 高校の修学旅行・・・東北への秋の旅(写真は十和田湖)・・・その旅先で僕は目撃したのだ 僕の同級生で普段はぱっとしない女の子にモテるわけでもない地味な奴がいた そいつが旅行にギターを持ってきていた すると・・・彼がベンチに座ってギターを弾いてると数人の女子が彼を取り囲んだのだ!「うわあ~!」「あの曲弾いて~」とか そうかあ・・・ギター弾けるとモテるんだ! それは「コペルニクス的転回」だった 当時剣道部という一番”モテる”ことから遠いところにいた僕もそろそろ「彼女」ぐらいは欲しい時期になっていた しかし”晩稲”の僕にはそのやりかたがよくわからない この「男子+ギター≒もてる」という方程式は実に初心者むけでわかりやすかった

 

修学旅行から戻ると僕はさっそくギターを手に入れることにした しかし当時はまだ親掛かりの貧しい高校生の身・・・小遣い貯めてもとても手が出せるような値段のギターはなかった

 

そこで・・・吉祥寺の駅近くにあった”ディスカウントショップ”を訪れた そこには色々な古道具や質流れ品に混ざってギターも置かれていた そこで一台3000円のギターをみつけ手に入れた

しかし、それは今考えるととてもギターとは呼べない代物だった おそらく楽器メーカーじゃないところで作られたものだったと思う 材料は全部合板・・・もろ”ベニア”だったし 当時はど素人だった僕にはわからなかったが普通のフラットトップタイプなのにブリッジがなぜかピックギターみたいな構造でなんと”テイルピース”が付いてると・・・マカフェリかあ?というような代物・・・音も酷かったねえ

おまけに当時は楽器についての知識も情報もほとんどなく弦が切れて楽器屋に買いに行っても「ライトゲージ」「ヘビーゲージ」の違いがわからなかった僕は店員に訊かれるとその時の気分で「ライト」とか「ヘビー」とか適当に答えおまけに切れた弦だけ交換するというやりかただったので常にちぐはぐな弦を張って時には小遣いが足りなくて弦が買えないと切れた弦をペンチで繋いだりして使うというまるで昔のミシシッピーのブルースマンみたいなことをやっていたのだ

そんなギターを手にして楽器屋で「フォークギター教則本」なるものを買ってきて・・・僕のギター人生が始まった

 

その頃・・・僕はまだ知る由もないのだが、吉祥寺のとある一角で不気味な動きを始めた若者たちが居た 彼らはやがて吉祥寺の「名店会館」が見渡せる小さなビルの3階に小さな・・しかしその後の日本の若者の文化や意識、そして僕の人生までも変えてしまうようなものすごいエナルギーを抱えた「火薬庫」となるスペースを生み出すのだが・・・それとの出会いまでにはあと3年ほど時間が必要だった・・・この続きの話はいずれ近いうちに・・・続く

 

 

 

僕の吉祥寺話 4

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さて、ギターを手にしてからの僕の日常生活はがらっと変わってしまった それまでは運動部の部活に明け暮れる毎日だった高校生が3年になりクラブ活動も「引退」し、学校が終り家に帰り部屋に戻るとすぐさまギターに飛びつく・・・そんな日々になった

当時、徐々に「カレッジフォーク」なる軟弱なやつら(マイク真木の「バラが咲いた」などね)を押しのけて妙に泥臭くて妙にいかがわしい「関西フォーク」なるものが(最初は「アングラフォーク」と呼ばれてたけど)前回も触れた「フォーククルセダーズ」のブレイクをきっかけに音楽シーン(そんな言葉は当時はなかったが)に侵食しはじめていた

岡林信康の「山谷ブルース」が普通にテレビなどでも流されていた記憶がある

 

 

世の中も当然そういう流れが強かった 東京大学の安田講堂事件、新宿騒乱事件、成田闘争、新宿西口フォークゲリラ・・・などなど 社会は大きな変革を求められているようなムードに染められていた・・・でも・・・あとで振り返ってみるとそれは「70年安保闘争」あたりをピークに盛り上がっていた「学生運動」の終焉の予告みたいなものでそのわずか一年後ぐらいにすべてのことが嘘みたいに下火になり収縮あるいは消滅してしまったのだが・・・

ところで、当時の吉祥寺の町はどうだったんだろう

思えばあの頃、「高度経済成長」まっしぐらな日本全土のムードは当然吉祥寺という街を変貌させるには有り余るくらいのエネルギーに満ち溢れていた

まず駅前のバス通りに手が加えられた 舗装の車道・・・ではなく石畳の歩行者専用道路、その頭上には駅前から五日市街道にかけての数百メートルにわたって巨大なアーケードがかけられた

 

 

名前も「サンロード」というなんだかお洒落な名前になり、当時日本中でもそういったアーケード街は珍しかったので全国から見学や視察に訪れる人や団体が多かった

 

 

 

あの「名店会館」が取り壊されそのあとに巨大なビル・・・東急デパートが建てられたころから吉祥寺の町の”匂い”が変わってきたことにどれだけの人々が気がついていたのだろう

 

 

 

 

 

そんな東急デパートが見渡せる位置にある小さな3階立てのビルの最上階に一軒の「お店」がオープンを迎えようとしていた その店がその後僕の人生をまったく変えてしまうきっかけになろうとは・・・その頃僕は自宅の自分の部屋の横にあった物干し場に座りギターを弾きながら下手くそな歌を歌っていた 「今日の~仕事は辛かった~♪」

 

それを下の階で聞いた母が階段を上がってくるとこう怒鳴った

「そんな変な歌歌うのヤメなさい!ご近所の手前みっともない!」

続く

 

 

僕の吉祥寺話 5

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高校3年生・・・つまりその当時の僕はしっかり”受験生”だったわけで、学校から戻るとそのあとはしっかり受験勉強・・・をしてなくちゃいけなかったのだが・・・すっかりギターにうつつを抜かし、勉強をしているはずの深夜にもただずうっと深夜放送ラジオを聴いていた

当然その結果ははっきり出るわけで、その翌春の受験を完全に失敗した僕は見事に「浪人」とあい成った 浪人というのはありがたいもので社会の”どこにも所属していない”という状態は今まで生きてきた中では始めて 予備校には通ったがそれも授業は午後の2~3時間くらい そのあと本来なら受験勉強にあてなければならない時間のほとんどを僕はギターを弾いたり音楽を聴いたりという時間に費やしていた

その頃・・・吉祥寺駅の高架下のショッピングモール「ロンロン」にあったレコード店「新星堂」で僕は1枚のレコードに出会った

 

 

 

その当時、ギター練習のメソッドとして聴いていた「ピーター・ポールアンドマリー」(略してP・P&M)をきっかけに(ボブ・ディランもジェシー・フラーもウディー・ガスリーも彼らを通して知った)「アメリカンルーツミュージック」特に白人の「Old Time Music」に傾倒していった僕はやがてひとりの昔のカントリーシンガーに辿り着く

そのシンガーはJimmie Rodgers(ジミー・ロジャース)といい、1930年代の初期にタイヘン人気のあったシンガーだというのはなんとなく知っていたがどんな演奏かは知らずにいた

 

その新星堂のレコード棚のカントリーコーナーにあった「永遠のジミー・ロジャース」というアルバムを購入して聴いたのがきっかけで僕の音楽の方向性がはっきりと決まってしまった

そのレコードから流れてくるなんとも”のどか”でオールドタイミーなサウンド、そしてはじめて聴くアコースティックスライドギター(のちにそれがオールドハワイアンギターだと知る)そして優しくなぜか切ないジミーの歌声・・・やがて僕はその奥に込められていた”エッセンス”の意味を知ることになっていった


それが「ブルース」だと知るにはそんなに時間はかからなかった 僕の人生をすっかり台無しにそして面白いものにしたブルースの扉はもうすぐそこで口を開けて待っていた

続く

 

 


僕の吉祥寺話  6

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さて、いつまでも「浪人」しているわけにもいかない 翌年の春・・・僕はやっとの思いで東京にある私立の工学系の大学になんとか滑り込んだ

しかし、入学して一週間ほど経つとすぐに気づいた・・・ここは僕なんかが来るべき場所じゃなかった・・・そう思うようになった

なんていうか、肌触りが合わないというのかなあ そこの学生たちが持っている空気みたいなものに妙な違和感を感じて・・・僕がそんなことを感じるのにはやはり「あれ」が関係しているんだろうなと思う

 

話が遡るが、浪人をしていたころ僕がハマって聴いていたJimmie Rodgers  彼の歌い方には独特のスタイルがあった それは「ブルー・ヨーデル」と呼ばれていてどの曲にもかならず「ヨールレイ~ッヒ~~♪」というようなヨーデルが入るのだ

それだけではなくその”のほほん”としているのにどこか憂いがある歌い方そしてメロディー・・・

それが黒人たちが歌っていた「ブルース」からの影響だと知ると僕はその「黒人ブルース」というものを聴いてみたくなった

吉祥寺のレコード店に行くとごくわずかな枚数の黒人ブルースのLPの中に一枚の魅力的なジャケットのアルバムを発見した モノクロの写真はどこかの大きな野外ステージで黒人のシンガーがこちらに背中を向けて観客に向かって歌っているシーンだ そのステージを見つめる観客の表情がとても活き活きとしていて目の前で繰り広げられている音楽がどれだけ魅力的かを物語っているようで・・・そのタイトルは「The Blues at Newport」といった

ほぼ「ジャケ買い」でこのアルバムを買って帰るとすぐ僕は自分の部屋で聴いてみた

それはアメリカの有名な野外コンサート「ニューポート・フォーク・フェスティバル」の模様を録音したもので1960年代の前半、フォークブームの波の影響でさまざまな往年のベテランブルースマンたちが「再発見」されて登場した”ブーム”の最中だったのだ

そのアルバムからはじつに生々しく生きているブルースマンの声が届けられた それはすごいカルチャーショックだったのだ

今まで耳にしたことのない・・・なんて言ったらいいのか・・・大地から直接響いてくるような・・・人間の声というより「魂」が直接歌っているような・・・脳の中の今まで誰も触ったことのない部分にいきなり素手で触られたような・・・それが黒人ブルースとの初対面だったのだ

 

 

 

 

中に登場していた黒人ミュージシャンは「ミシシッピ・ジョン・ハート(左)」「スキップ・ジェイムス(中)」「スリーピー・ジョン・エスティス」「エリザベス・コットン」「ロバート・ピート・ウィリアムズ(右)」といった顔ぶれだったのだ

彼らはもう例外なくかなりの高齢だった それに「再発見」されたときにはもうすでに”現役”ではなく大概はアメリカ南部の片田舎で忘れ去られてひっそりと暮らしていたのだ

にもかかわらずその何十年ぶりで人前で歌う彼らの歌には瑞々しさと生きているエネルギーがあった

その中でも特に僕の心を捉えたのが「スリーピ・ジョン・エスティス」だった

1930年代に南部のメンフィスを中心に活躍していた彼だが、再発見されたときにはすでに”老境”のかなり後半おまけにその間の人生の苦難もあって両目を失明して貧困のどん底にいた人だ だから当時の紹介でも「悲しみのブルースマン」とか「涙なくしては聴けない」などと紹介されていたが実際にニューポートのライブ音源を聴くとサイドにハミー・ニクソン(harp)ヤンク・レイチェル(mandolin)を従えた演奏は不思議とジャンプしていてダンサブルでしわがれ声で歌うジョンは”ファンキーなおじいちゃん”といった感じだった 僕は一編で”ファン”になってしまい その後輸入レコート屋(まだ国内盤は出ていなかった)を探しまくり、ヨーロッパのマイナーレーベルから出ていた彼のアルバムを手に入れた日がちょうど大学の合格発表の日と一緒だった・・・というのも何かの運命だったのかも知れない

いわゆる「フォークミュージック」とか「伝承音楽」とか言われているものと違うものがその中にはたっぷり流れている・・・それを感じ始めたころから僕の心はすでに”蝕まれて”いたのかもしれない

続く

 

僕の吉祥寺話  7

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「吉祥寺話」と言いながら吉祥寺の話をほとんどしていないねえ・・・

それには理由もあって高校卒業から浪人中は僕がほとんど「引き篭もり」に近い生活をしていたからで吉祥寺の街にはたまに買い物に行くぐらいで”そこ”で何かをするようなこともなかった

・・・が、ここから先しばらくは本当に吉祥寺の裏町での僕の”ドラマ”はそれはそれは「濃い」ものになってゆくのでしばらく待ってね

今はそこに至るまでのプロセスを読んでもらっているわけです

 

 

さて、話は黒人ブルースに出会ってからの僕の日常の話に戻す

その1枚のレコード「The Blues at Newport」をきっかけに僕はずるずると「ブルース」というコールタールのように真っ黒で粘っこい”底なし沼”にはまって抜けられなくなっていた

それとまるで呼応するようにその当時の日本にはちょっとしたブルースブームが起き始めていた

少し前なら考えられなかったオムニバスの「RCAブルースの古典」という3枚組みのアルバムが「ビクター」から発売され、それまで輸入盤でしか聴けなかった戦前のブルースが手軽に聴けるようになったのだ それにラジオでも音楽評論家の中村とうようが「ブルースの世界」などという番組をスタートさせるなど・・・まるでブルースがトレンドのような状態・・・いま考えると「夢」みたいな状況だったね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして僕は数多いカントリーブルースの”巨人”たちの沼の中から僕の「アイドル」となるブルースマンたちを掘り出していた 「ビッグ・ビル・ブルーンジー(左)」「タンパ・レッド(中)」「ロバート・ジョンソン(右)」・・・それらは後のジミー矢島のギタースタイルに多大な影響を与えることになる

 

 

 

 

その中でも僕のギタリストとしてのキャリアに重大なインパクトを与えた一人の盲目のブルースマンがいた その名前は「Blind Blake(ブラインド・ブレイク)」と言う

はじめてレコードで彼の超絶ギタープレイを聴いたとき「これは絶対に二人で弾いている」としか思えなかった そのギターはいわゆるフィンガーピッキングなのだが「ストラミングベース」と呼ばれるシンコペーションを多用するベースランと高音のフレージングの組み合わせはどう考えても1本のギターでは無理!としか言えない でもやはりどうも一人でやっているようだ

今は教則本とかビデオとか色々出回っているからそういう秘密を暴くのが楽になってきている でもその当時はそんなものは一切なかった

そこで僕はその曲を何度も何度も・・・本当にレコードの溝が擦り切れるまで聴いた

そして頭の中でそれをイメージしながらギターに食らいつく・・・「う~ん、こうじゃない!」などと嘆きながら・・・何度も何度もトライしながら

そういうことを2~3ヶ月続けた結果なんとかブレイクのギターワークに近いものが出来るようになっていた そう・・・こんな感じかな 後半1分34秒のあたりからでちょっと弾いてます(当時と比べるとだいぶ下手になった(×.×)

そんなこんなでその頃はすっかり「あちらの」音楽にばかり興味が集中していた僕だが、もちろん元「フォーク少年」であった自分としては日本の音楽にもアンテナは張っていた

そんなある日、ラジオの深夜放送のたしか吉田拓郎がやっていた「オールナイト・ニッポン」のなかで奇妙な曲がかかった わずか1分もない短い曲 「アイスクリーム」という曲でやけにぶっきらぼうで淡々と歌うそのシンガーの曲調やギターは完全に「ミシシッピ・ジョン・ハート」のスタイルだった

そのシンガー 高田渡がじつはそのとき吉祥寺に住んでいるという情報をきいたのはそのすぐあとだったのだ
続く

僕の吉祥寺話 8

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高田渡が吉祥寺にいる・・・その噂は「新譜ジャーナル」などの当時の音楽雑誌などにもちらっと情報が載っていたかもしれないが主な情報を僕は身近な人間から聞いていた

 

僕には2歳年下の妹がいた ニックネームはMEGと呼ばれていた彼女はその頃吉祥寺のミュージシャンたちと交流があった

高校を途中で退学していた彼女を僕の母は「不良娘」だと言っていたがその”不良”が出入りする怪しげな店が吉祥寺にあり”夜な夜な”そこに入り浸っては「悪い仲間たち」と付き合っているという話・・・

ただ、その店には高田渡をはじめ吉祥寺を根城にして活動するシンガーやミュージシャンたちがよく来ている・・・かすかな噂だが僕の耳にもそういう話が飛び込んできていた

 

そんな頃だ 確か「杉野講堂」かどこかで開かれたイベント こまかいタイトルは覚えてないが「ウディー・ガスリー」をトリビュートするイベントコンサートでそこに僕が当時かなり興味を持っていた「ガスリーチルドレン」と言われるようなシンガーたちが出演した

 

 

 

イベントは前半がジョン・フォード監督、ヘンリー・フィンダ主演の映画「怒りの葡萄」の上映だった この映画はスタインベック原作の同名小説を映画化したもので1930年代にアメリカのオクラホマ州を実際に襲った砂嵐による被害で土地を追われ新天地を求めて過酷な旅をする農民たちを描いたもので、ウディー・ガスリー自身もその境遇の真っ只中にいた人で「Dust Bowl Refugee」という彼のオリジナル曲にはまさにその過酷な状況が歌いこまれている

さて、休憩を挟んで第2部が始まる そこからは色々なミュージシャンが次々に登場した

 

 

高田渡、シバ、友部正人、遠藤賢二・・・たしかはっぴいえんども出てたと思うがその一番最後に演奏したのが当時高田渡やシバが中心になって結成されていたユニット「武蔵野たんぽぽ団」だった

それらのミュージシャンたちがステージで演奏するのを「うわあ、かっこいいなあ いいなあ」と観ていた僕・・・それからしばらくしてまさか自分が同じようなところに立つことになるとはその時は思ってもいなかった    続く

 

 

僕の吉祥寺話  9

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さて、その当時の日本の社会状況と音楽の流れをちょっと話しておこう

「70年安保」が結局どれだけ多くの民衆の声が大きくとも何事もなかったように国会であっさり通り千葉県成田に国際空港の工事がどんどん執行されてゆき「全学連」からどんどん分派活動を進めていった学生活動家たちのうち最も過激な活動していた「連合赤軍」の「あさま山荘事件」などをきっかけに学生運動もすっかり沈静化・・・あるいはさらに”地下に”潜り・・・そして「全共闘世代」と呼ばれていた当時の若者たちは今度は「しらけ世代」と呼ばれることになる

 

 

音楽の中にも色々な変化がおきていた

それまでそういった活動的な若者たちに支持されていた「岡林信康」「高石友也」などのシンボル的シンガーたちが次々に転向あるいは沈黙してゆき(岡林信康は「俺らいち抜けた」という曲を発表して田舎に篭ってしまった) そのあとを埋めるように高田渡などの「生活派」のシンガーたちが頭角を現しはじめる

 

 

 

その高田渡を尋ねて東京から京都までヒッチハイクで辿り着いた青年・・・シバはその年の夏に開かれた「中津川フォークジャンボリー」に渡に引っ張り出されて登場する

そのシバがファーストアルバムを出したレーベル「URC」 そこからは高田渡の「汽車が田舎を通るそのとき」とか遠藤賢司の「それで満足できるかな」などが出ていたが、やはりシバの「青い空の日」を聴いたときは烈しくインパクトを受けた 当時日本にまだまだブルースが定着していなかった当時、関西では「West Road Blues Band」などが始動していたが・・・ギターの弾き語りでしかも日本語のオリジナルのブルースを歌うシンガーなんて存在していなかった(あるいは知らなかった)

その黄色と黒のジャケット(彼自身のイラストだ)はあきらかに当時の米国「Folkways」レーベルを意識していたが、そのアルバムを聴いたとき「こんなに本格的で泥臭いオリジナルブルースを歌うシンガーがいたなんて!」と度肝を抜かれたものだ

そしてその後も彼のことはすごく意識するようになっていた そのシバが吉祥寺の”ある場所”によく居る・・・その話を妹MEGから聞いたときは思わずトリ肌が立ちそうになった

ある場所・・・そこは僕の母が「どうしようもない不良のたまり場」と称した店・・・「ぐゎらん堂」

そここそがこの後僕の人生の方向を大きく決めてしまった場所だったのだ

そしてある日MEGがこう言った 「シバが兄貴に会いたがってるけど・・・どうする?」

続く

 

 

ジミー矢島ギターセミナー(超初心者向け)始めます!

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ジミー矢島ギターセミナー(超初心者向け)!

 

DSC_9972ギターは持ってるけど全然弾けない

どうしても押さえられないコードがある

どうやって弾いたらいいのかよくわからない

昔ちょっと弾いたことあるけどずうっと弾いてない

そもそも面倒くさいレッスンは受けたくない

などなど・・・・

 

 

そんな方に、ギタリスト暦45年のジミー矢島がていねいに指導します013

普通のギター教室では絶対に教えてくれない

「裏技」があなたをすぐに弾けるようにしてしまいます

そしてレッスンはグループで・・・みんなで一緒に歌うことであらためてギターを弾くことの楽しさを見つけてください

まずはギターを持ってやってきてみて下さい 今まで無かったあなたを見つけ出すことができると思います

 

こんなことで困ってませんか

1)コードがうまく押さえられない

2)ギターを弾くと手が痛くて辛い

3)弾いてみたい曲があるのだけど難しい

4)ギターの弦の張り方がうまくできない

5)手が小さい、あるいは手の力が弱くてギターをうまく押さえられない

 

第回セミナー 8月28日(日)

open 11:30 start 12:00
               参加料¥2000(1ドリンク付)

* 各自ギターを持ってきて下さい(当日持参できない方にはレンタル3本まではできます)

* 見学だけの方も大歓迎 ¥1000(1ドリンク付)

 

申し込みお問い合わせは直接ジミーまでかペンギンハウスのHPのお問い合わせのところへお願いします


僕の吉祥寺話 10

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「シバが会いたがってる」

その話を妹から聞かされたときは正直驚いた

それまで僕はギターの練習もかなりやっていて腕前にはまあそこそこ自信は持ってたしオリジナルの曲もそこそこ書き溜めていつかはどこかでやりたいな・・・などとは思ってたが、まったくのずぶの素人だったしましてそんな”プロ”としてやっているミュージシャンとは直接会うなんて考えてもみなかったのだ

妹の話では彼女がシバやほかのミュージシャンたちに僕のことを話してくれていたらしい 「うちの兄貴ギター弾いてるよ、けっこう上手いよ」・・・などと

そして向こうからの指定のあったある日の夕方、僕はとうとう「ぐゎらん堂」に行くことになった

そこは吉祥寺の東急デパートの前を西に向かって少し歩き「藤村女学院」のちょっと手前、小さな三階建てのビルのまっすぐな階段を昇りきった3階にあった

 

なかなか入りづらい雰囲気の場所だったが思いを決して重たい木のテーブルを開いた 僕のぐゎらん堂デビューだ!(笑)

 

 

店の中は薄暗くたしか早い時間だったので店内にはあまりお客はいなかったように覚えている その客席のテーブルに見覚えのある小柄で無精ひげの男性が座っていた それがシバだった

「やあ、どうも」「はじめまして」・・・そんな挨拶を交わしてそれから彼は僕にこう言った

「じゃ、ちょっとどこかに飲みにいこうか」

そして二人でぐゎらん堂を出て中央線のガードをくぐり南口に出ると公園通りのすぐ先にある「いせや」に向かった

「いせや」は今では吉祥寺の名所になっていて多くのお客が・・・それも地方からわざわざ訪れるお客も居てすっかり人気スポットになっているが、当時のそこは(今は改築されて当時の雰囲気は残っているが全く別物)ホルモン焼きと焼酎がメインのメニューの安い立ち飲み酒場で、当時はいわゆる「肉労系」か「サラリーマン」それに金のない若者などののたまり場だった(写真上が現在・・・上階はマンションになってる 下;昔は木造2階建て)

 

今はどうなってるかわからないけどその当時の「いせや」の焼酎はかなりの安物だった 注文すると小ぶりのグラスその下には受け皿がついていて従業員がヤカンのようなものでそのグラスに溢れるぐらいの量の焼酎をついでくれる お客はまずその表面張力で盛り上がった水面に自分の口を近づけて一口飲み、その減ったところへ皿にこぼれたのを継ぎ足しまた一口、そしてその減ったところへ今度はカウンターに置いてある「角ビン」に入ったオレンジ色をした怪しげな液体・・・それは「梅エキス」だとあとで知ったが・・・を”ちょろっ”と継ぎ足して飲む、というのがそこでの「ルール」になっていた

その立ち飲みのカウンターにつかまりながら初対面のこのブルースマンと僕は話をした

今となっては具体的にどんな会話をしたのかは覚えていないが、とにかく音楽特に「ブルース」について熱く語り合ったのは間違いない

別れ際シバがこんなことを言ってくれた

「今度俺のアパートに遊びにおいでよ」

その言葉に甘えて僕が彼のアパートにお邪魔するのにそんなに日数がかからなかったのは、言うまでもない
続く

 

 

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僕の吉祥寺話 11

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さて、ここでその当時の「ぐゎらん堂」のことを説明しておこう

でも僕が細かいことをああだこうだ言うよりもこの店の当のオーナーだった村瀬春樹さんが素晴らしい文章を書かれているのでまずそれをご覧になっていただこう→「音盤は回る」

 

とにかくそこは決して広くもないし素朴・・・と言うよりは「学祭の模擬店」のような荒っぽいつくりの店だったが、そこに充満していた熱気とエネルギーはそれは尋常じゃないものだった・・・店の固い木のベンチに薄いマットを敷いただけの座席にどれだけ座って色々な連中と色々な話をしたか・・・若かったとはいえ膨大な時間の浪費・・・そのほとんどは「白水」(サントリーホワイトの水割り)や「ブラン」(電気ブラン)などで朦朧とした頭で過ごした時間なのだが・・・大いなる”無駄”がその後の色々なものに出会ったときの僕の思考を生み出す「胎盤」になってることは否めない

 

そしてそこにやってくる大勢のとてつもなく個性というより「独自の世界を持つ」人々・・・それはミュージシャンだけでなく「絵描き」「詩人」「ダンサー」「役者」「文学者」「漫画家」「ヒッピー」「出版業者」」「不良少年少女」「プータロー」などなど・・・との交流・・・毎日がなんだか「他流試合」のような「ストリートファイト」のような日々がまだ”ガキ”だった僕にも容赦なく襲いかかってきていた


そして当時の「ぐゎらん堂」と吉祥寺にはそれは最初は」シバそして主に高田渡の影響だったのだろうけど実に多くのミュージシャンたちが集まってきていた「シバ」「友部正人」「中川五郎」「中川イサト」「加川良」「村上律」「松田幸一」「渡辺勝」「竹田裕美子」「今井忍」のちに「佐久間順平」「大江田誠」「林ヒロシ」「小林清」「大庭珍太」「佐藤GWAN博」「朝比奈免人」・・・まだまだ書ききれないが

 

だから深夜のぐゎらん堂ではそういう連中の「セッション」・・・と言えば聞こえがいいが・・・要するに酔っ払って朝までわけのわからない音を延々と弾き続けるという・・・

春樹さん(右写真、ハンチングの人)も書いているがお店にとっては実に困った連中の困った所業が夜毎繰り広げられていたわけで・・・でもそういった「遊び」みたいなものから一つの動きが発生していった

 

 

 

それが伝説のユニット「武蔵野タンポポ団」の誕生へとつながるのだが・・・

続く

 

 

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僕の吉祥寺話 12

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さて・・・武蔵野タンポポ団だが、この名前の由来から説明しよう

 

中心メンバーのシバがその当時ものすごく貧乏をしていて食料も買えず、ついには道端の野草などを採ってきてそれを料理して食べていた・・・特にタンポポが中心に・・・というエピソードがバンド名の由来となっている

 

彼らのやっていたスタイルは「ジャグバンド」と言われるもので、元は1920年代ごろを中心にアメリカ南部の黒人たちの中のちゃんとした楽器を持たない、というよりは持てない貧しい連中が洗濯板やタライそれに大きなビンなどを使って気ままに演奏するスタイルとして広まっていたもので、むこうでは「メンフィス・ジャグバンド」「キャノンズ・ジャグ・ストンパー」などが有名だが・・・そういうわけでこの日本初(?)のジャグバンドも当初のメンバーは固定せず、と言うよりその日にぐゎらん堂に居た誰でも参加することが出来る・・・そういう”ゆるい”体制だったのだ

 

だから楽器もギターやベース、マンドリン、ブルースハープなどというちゃんとした楽器だけでなく空き瓶を使ったジャグやタバコのビニールカバーなどを使ったカズー、スプーンを2本打ち合わせてカスタネットのように鳴らしたり・・・とまさに「ジャグバンド」スタイルだったのだ

 

だが、やがてこのバンドの評判が広まりあちこちで演奏するようになると自然に”ちゃんと演奏の出来るメンバー”だけに絞られていわゆる「素人」は除外されてゆくようになってきた

 

当時のメンバーは「シバ」「高田渡」「若林純夫(通称ウディー)」「村瀬雅巳(春樹氏の弟)」「山本コータロー」が中心でそこにイレギュラーで「友部正人」「中川イサト」「岩井宏」などが加わったりしていたが、のちに大きくメンバーチェンジを迎えることになるが、ここらへんの話には色々な状況が加わるのでもう少しあとで話す

とにかくこのバンドの影響力は当時すさまじく、そのすぐあとから全国のあちこちで「○○ナントカ団」などというようなユニットがそれこそ雨後の筍のように出現したことを見てもわかる

そして、世の中はなんとなく「シラケ時代」に突入し日本中がなんともいえない倦怠感とあきらめや無力感に囚われていた頃・・・若者たちも当然そうだったわけで「社会をなんとかしよう」という考えよりも「今生きてる自分はなんなんだ」・・・そういう問いかけを自分自身に向ける

生み出されるものも当然そういったものを反映し「個人的なこと」に向かってゆく

そういう方向性をもって生み出されていたた曲を世間はカンタンにひとつの言葉で切って捨てた

「四畳半フォーク」・・・と まあ外れてもいなかったわけだけどね(笑)

そしてその「四畳半フォーク」の代表みたいに取り上げられていたシバとは・・・どんな人だったのかというと・・・

続く

 

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

ライブのお知らせ

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はい、もう3週間を切ったから告知させて下さいませ

来月11月9日(水)のペンギンハウスライブは

「アコギ3人男」と題して今ペンギンハウスに出演しているプレイヤーのうちアコギだけでやってる凄いの三人集めての対バンです

 

これはもう「対バン」と言うより「バトル」になりそうです!

 

出演は「伊藤悦士」「大濱吾朗」「ジミー矢島」の三人! お楽しみに!!

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高円寺ライブハウス ペンギンハウス

訃報   30日

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ペンギンハウスの出演者で 「弱者同盟」のメンバーだった01611

 

カンコさんが

 

昨日、11月29日に亡くなりました

 

今年の4月からずっと闘病生活だったのですが残念なことに帰らぬ人となってしまいました

 

活動中はいつも笑顔を絶やさない優しくそして芯が強く感性の素晴らしい素敵な女性でした

 

僕も大好きだった彼らの演奏そして人柄・・・

 

とても残念ですが・・・こう言わせてください

 

たくさんの楽しい想い出をありがとう! これからも皆の心の中にずうっと居てくださいね

 

近日中に彼女と弱者同盟に関する直集記事を組みたいと思っています   ジミー

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高円寺ライブハウス ペンギンハウス

メモリーズ オブ KANKO

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夫婦ユニット「弱者同盟」がはじめてペンギンハウスに登場したのは

 

2012年12月18日だった

そのときはKANKOはまだ「ダフト」という名前でフルフェイスのマスク(ヘルメット)を被って演奏していた 「謎の人物」という設定だったのか・・・ただKANKO とZOE 彼らの作る独創性のあるサウンドは面白くて楽しくて僕はすぐに好きになってしまった
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それから4年弱・・・いろいろなパフォーマンスで客席をいつも愉しませてくれた

以下はその折々のライブのもようを僕がレポートしたものです

*それぞれの日付けをタッチするとその日のライブレポートが見られます

 

2012年12月18日  00911-e1440165906245-1100x4430147-e1426775372285-1100x45800714-e1432562768855-1100x59400690278

 

2013年8月10日

 

2013年9月13日

 

2014年3月21日

 

2014年4月28日

 

2014年6月20日

 

2015年1月16日

 

2015年3月19日

 

2015年5月25日

 

2015年6月12日

 

2015年7月17日

 

2015年8月21日

 

2015年10月16日

 

2015年11月20日

 

2015年12月25日

 

2016年1月30日

 

2016年2月26日

 

2016年3月25日

 

幸いなことは彼らがペンギンハウスに出演した日は大概僕も出勤していて彼らのこれまでのライブ活動をずうっとトレースしてこれたことだ

2015年からはほぼ毎月ペンギンハウスに出演していた作者同盟

この頃からKANKOは「ビジュアル」にこだわるようになり「外付けハート」とか水引などを使った独創的でファンタスティックな衣装や小物を作り始めていた これは彼らと親しいユニット「半バナナ」にも影響を与えていた 「弱者同盟」と「半バナナ」は時々「サンボンハデイヌ」というユニットを組んで一緒に活動したりしていた

2016年・・・4月20日がKANKOがペンギンハウスに出演した最後だった

本当に悔やまれるのは、その日だけ僕が休みで彼らのライブを目撃してなかったことだ

こうなることがわかってたら観に来れば良かった
写真はそのときお客さんで来ていた岡田哲さんがアップした映像をお借りしました
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彼女は音楽やアートのセンスがあって、ものすごい頑張り屋でその優しい人柄とすごく芯がしっかりしたところや、けっこう「おっとっと」なところがあって合い方のZOEとのコンビネーションがまた微笑ましく、いつも笑顔で元気で本当に素敵な人だった ミュージシャンとしても人間としても皆から好かれていた

これからも皆の記憶に留まり続けるでしょう・・・ありがとう カンコ!

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高円寺ライブハウス ペンギンハウス

http://penguinhouse.net/how

山彦ピックアップ 新しい動画です

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トップページでもお知らせしていますが

「山彦ピックアップ」のジミ-矢島が演奏したプロモーションビデオの最新版が出来上がりました 今回は「L.R .Baggs」のプリアンプD.Iを使いイコライジングをしています

「山彦ピックアップとは」

ボディーに穴を開けずただクリップして挟むだけで使えるピアゾタイプのピックアップです

ピックアップは取り付けたいけどギターに穴を開けたくない

複数のギターにその時々で1コのピックアップを手軽に付け替えることができないか・・・

そう思ってる方たちへ・・・よかったらぜひお試し下さい

とても生に近い深みのある音になってますよ!

よかったら見て下さいね

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