一枚のDVD
昨日ペンギンハウスに出演したシンガーの寺田町氏からDVDを頂戴した タイトルは「風が吹いてて 光があって」 という 2011年から12年の間に彼がツアーで回ったその現地でのライブのもようやツアーの風景などが収められた50分ほどの作品だ 撮影したのは加藤仁史という写真家 画面はすべてモノクロで撮られている 演奏者は寺田町に加えて...
View Articleオニの出番
昨日、休みでテレビをぼんやりと観ていたら「旅番組」でちょっと面白いのをやっていた それは”郷土芸能”を紹介する内容で、岩手県の北上地方に伝わる「岩崎鬼剣舞」という神楽と舞踊のことだったのだが・・・ なにしろその出で立ちと踊り方がすごく僕の心を惹きつけた...
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昨日お休みだった僕は吉祥寺にでかけた 以前僕がやっていた蕎麦屋「からまつ亭」の元常連の何人かとの「新年会」に参加するため もう店を閉めて10年近く経っているのだが彼らとの交流はその後も続いている みんな気のおけないいい仲間だ 飲み会の会場は吉祥寺の北口にあるおでん屋「太郎」 この店にお邪魔するのは初めてだが、マスタ-の太郎さんとはもう40年以上の付き合い...
View Article僕の吉祥寺話 4
あらあら、ずいぶんと空けてしまった・・・どこまで話たっけ? そうだ、僕が高校生のときギターを弾き始めた話までだったね さて、ギターを手にしてからの僕の日常生活はがらっと変わってしまった それまでは運動部の部活に明け暮れる毎日だった高校生が3年になりクラブ活動も「引退」し、学校が終り家に帰り部屋に戻るとすぐさまギターに飛びつく・・・そんな日々になった...
View Article僕の吉祥寺話 5
高校3年生・・・つまりその当時の僕はしっかり”受験生”だったわけで、学校から戻るとそのあとはしっかり受験勉強・・・をしてなくちゃいけなかったのだが・・・すっかりギターにうつつを抜かし、勉強をしているはずの深夜にもただずうっと深夜放送ラジオを聴いていた 当然その結果ははっきり出るわけで、その翌春の受験を完全に失敗した僕は見事に「浪人」とあい成った...
View Article僕の吉祥寺話 6
さて、いつまでも「浪人」しているわけにもいかない 翌年の春・・・僕はやっとの思いで東京にある私立の工学系の大学になんとか滑り込んだ しかし、入学して一週間ほど経つとすぐに気づいた・・・ここは僕なんかが来るべき場所じゃなかった・・・そう思うようになった なんていうか、肌触りが合わないというのかなあ...
View Article僕の吉祥寺話 7
「吉祥寺話」と言いながら吉祥寺の話をほとんどしていないねえ・・・ それには理由もあって高校卒業から浪人中は僕がほとんど「引き篭もり」に近い生活をしていたからで吉祥寺の街にはたまに買い物に行くぐらいで”そこ”で何かをするようなこともなかった ・・・が、ここから先しばらくは本当に吉祥寺の裏町での僕の”ドラマ”はそれはそれは「濃い」ものになってゆくのでしばらく待ってね...
View Article僕の吉祥寺話 8
高田渡が吉祥寺にいる・・・その噂は「新譜ジャーナル」などの当時の音楽雑誌などにもちらっと情報が載っていたかもしれないが主な情報を僕は身近な人間から聞いていた 僕には2歳年下の妹がいた ニックネームはMEGと呼ばれていた彼女はその頃吉祥寺のミュージシャンたちと交流があった...
View Article僕の吉祥寺話 10
「シバが会いたがってる」 その話を妹から聞かされたときは正直驚いた それまで僕はギターの練習もかなりやっていて腕前にはまあそこそこ自信は持ってたしオリジナルの曲もそこそこ書き溜めていつかはどこかでやりたいな・・・などとは思ってたが、まったくのずぶの素人だったしましてそんな”プロ”としてやっているミュージシャンとは直接会うなんて考えてもみなかったのだ...
View Article僕の吉祥寺話 11
さて、ここでその当時の「ぐゎらん堂」のことを説明しておこう でも僕が細かいことをああだこうだ言うよりもこの店の当のオーナーだった村瀬春樹さんが素晴らしい文章を書かれているのでまずそれをご覧になっていただこう→「音盤は回る」...
View Article僕の吉祥寺話 12
さて・・・武蔵野タンポポ団だが、この名前の由来から説明しよう 中心メンバーのシバがその当時ものすごく貧乏をしていて食料も買えず、ついには道端の野草などを採ってきてそれを料理して食べていた・・・特にタンポポが中心に・・・というエピソードがバンド名の由来となっている...
View Article僕の吉祥寺話 13
シバ・・・僕より三歳年上の彼は本名が三橋誠・・・現在では「三橋乙揶」と名乗ってるが、東京の西のはずれ八王子で生まれたらしい 彼はとても多彩な人間で音楽のほかにも絵描きとしての面も持っていてまた若い頃は漫画家を目指していて「旅人くん」などの作者「永島慎二」のアシスタントもしていた その弟子時代の彼がモデルになった漫画を永島慎二が70年代のはじめに発表した...
View Article井之頭公園
吉祥寺にある井之頭公園の池が「かい掘り」で水がない・・・というニュースを聞いて「どんなになってるのか」気になって行ってみた これは何年かに一度ボランティアが中心になって池の水質をよくするため、池に生息している外来種の生き物の駆除そして池に投げ込まれたさまざまなゴミの撤去などが目的で、3月の後半までは池に水が無い状態にしておくのだそうだ...
View Article続;井之頭公園
「井之頭公園」正確には「井之頭恩賜公園」は武蔵野市と三鷹市にまたがって吉祥寺駅のほぼ真南にあるY字型の池を取り囲む”東園”と、元は「日産自動車」の社員の保養施設だった今は”ジブリ美術館”などがある”西園”とで成り立っている 池の畔にはもうかなり樹齢を重ねたソメイヨシノの樹が数多くあって4月のお花見の時期にはそれこそものすごい数の花見客で大騒ぎになる...
View Article僕の吉祥寺話 14
さて、吉祥寺からその当時の日本の音楽シーンを引っ張っていたともいえる ぐゎらん堂 そこにはどんな人たちが居たのか ミュージシャンたちについては 前に触れたが、それ以外にも実にユニークで個性的な人たちが集まってた まずお店の人たち・・・スタッフについて まずはこのお二人だ ぐゎらん堂の創始者でオーナーの村瀬春樹&ゆみこご夫妻 というより「同士」というつながりを持つお二人...
View Article僕の吉祥寺話 15
さて・・・吉祥寺のぐゎらん堂に来ていた面々・・・それは高校生から老年の人まで様々だった 僕は高校生グループとは没交渉だったが年上の人たちとはずいぶんと親しくしてもらっていた 青林堂の長井さんは当時若者の一部に圧倒的に人気のあった月刊漫画誌「ガロ」の編集長で春樹さんともとても深いつながりを持つ人である意味「著名人」だったが、若いチンピラな僕なんかも気さくに相手をしてくれた...
View Article僕の吉祥寺話 16
「メグのお兄さん」・・・そのなんともこそばゆくて居心地の悪い名前に甘んじていた僕についに名前が付けられる日が来た といってもそれがいつだったかは今となってははっきりとは覚えていない 「いつの間にか」「なんとなく」というのが正しいのだろう 名付け親はぐゎらん堂マスターの村瀬春樹さんだ...
View Article僕の吉祥寺話 17
その話はシバから来た URCレーベルから一枚目のアルバム「青い空の日」を発表して全国的にもかなり名前の知られてきていた彼に今度はメジャーのレコード会社「CBSソニー」から二枚目を出さないかという話が来たのだ 当時僕からの影響もあってシバはかなりジミー・ロジャースに傾倒していた...
View Article僕の吉祥寺話 18
シバのアルバム「コスモスによせる」に参加することで、なんとなくだが僕は急にミュージシャンそれも「プロ」として周りからは見られるようになってしまった 昨日も言ったけど本人には何の自覚もないままにだ 今じゃレコーディングなんて別に普通に誰でもやってるしCDを作ることも何のハードルがないけど当時は「レコード」を出すなんてけっこう「凄いこと」と思われていたからかも知れない...
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